普通の人とは違うものを 今日の爪牙(そうが)誰か敢(あえ)て敵せん さらに一年後のとある明け方。かつて李徴と、職場での同期であり友人だった袁傪(えんさん)が、わずかな月明かりを手がかりに林の中を通っているとき、一匹のトラと出会います。, トラは、すぐ草むらに隠れますが、つい声をもらしてしまいます。袁傪はすぐに、声の主が李徴であることに気づきます。草をへだてたまま、声のみで一人と一匹の会話が始まります。袁傪の「なぜ草むらから出てこないのだ?」という質問に、李徴は答えるのです。, おれは醜い姿になっている。    並外れた知性ゆえに JavaScriptが無効の場合は一部ご利用いただけない機能がございますので、有効にすることをお勧めいたします。, 学校の推薦図書などでオススメされた日本の近代文学。いざ、読んでみようとチャレンジしても、マンガと違って難解だし、なかなかその楽しみ方がわからず毎回挫折を繰り返すばかり。物語の登場人物がとった謎の行動の意味や、会話の裏に隠された真意がわからず、読後もなんだかモヤモヤする…なんて人も多いのではないでしょうか。, けれど、コツさえ分かれば、実は難解ではないのだそう。今回、大手進学塾で教鞭をとり、教材制作にも携わる国語教師の西原大祐氏に、「有名すぎる文学作品」の「読み解き方」を解説してもらいました。作品の中に込められたテーマを知れば、生きていく上で一度は直面する数々の悩みと向きあうヒントを得られるのが、文学作品の素晴らしいところ。お盆休みの間に、文学作品の本当の楽しみ方を知り、その世界観にどっぷり浸ってみるのはいかがでしょう。, 「自意識」というテーマから読み解ける物語をとりあげてみましょう。高校教科書への最高掲載回数を誇るともいわれる、中島敦『山月記』です。, 必要以上に自分自身にこだわってしまったり、または他人からの悪意に鋭くなってしまうという経験はないでしょうか?「こんなはずじゃなかったのに」、「誰かが自分をおとしいれようとしている」という言葉は、理想としている「いまの自分」とかけはなれてしまったときに、ついつい出て来てしまうものです。, これこそが、「自意識」という問題です。 夏目漱石の小説「こころ」の中のお嬢さんはどのように先生に接... 先生が何故自殺をしてしまったのか このやり取りを通じて人間の本質を探ってみましょう... K君はなぜ死を選んでしまった

  誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。 文学作品の感想&解説記事、読書アイテムや読書法などを書いています。

   どのような孤独でしょうか。, 俊才と言われた李徴ですが、やはりこの永野教授のような孤独を感じていたのでしょうか。, 孤独の国家損失は年間4.9兆円   https://www.huffingtonpost.jp/entry/may-loneliness_jp_5c5b75f2e4b0faa1cb67c9aa, その後一度は生活のため役人としての仕事に就くことで何とか社会復帰を成し遂げたのですが、 だが私はいま虎となって雑草の中にひそみ、 と感じる袁傪。 李徴の「欠けるところ」とは何だったのでしょうか? 気になる方はぜひ、今一度 『山月記』を読み直してみてくださいね。 でも、友人に会うことができた。    努めたりすることをしなかった》, 恐怖心から必死に逃げたのですが、その結果、追いかけてくる恐怖はますます大きくなったようです。, 《天に踊り地に伏して嘆いても、    先生は その光が決して届かない さまざまの災難も重なり逃れることができない。 ビジネスパーソン向けの注目書籍を見つける本チームは、ビジネス書にとどまらず、社会課題、自然科学、人文科学、教養、スポーツ・芸術などの分野から、注目の書籍をご紹介します。     誰かと議論したいと思っても   分かってくれる者はない》, 往年の俊才と言われた李徴は、非常に頭がよくて優秀で、誰かと議論をしても敗れる経験が少なかったのでしょう。, 《己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。 中島敦の小説「山月記」の中で、李徴は虎になってしまいました。李徴はどうして虎になんかなってしまったのでしょう。ここでは 李徴が虎になった理由=> 李徴が林の奥深く入り、 虎のような生活に身を落とした理由と捉えて理由を考えてみました。

「現代文授業ノート」(普通クラス) 中島 敦 「山月記」 〈出典・作品〉 (コタン) 昭和17年(1942)、『古譚』の名で 「山月記」「文字禍」の二作発表 唐代の伝奇小説「人虎伝」を典拠 ↓ (変身 … だから、会おうという気持ちをなくすために、是非自分の姿をみておいてもらいたい。, 一行が丘の上に着いたとき、彼らは、言われたとおりに振り返って、先ほどの林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。, 虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、もとの叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。, [読み取り方]  最後になり、初めてトラになった李徴の姿が説明されています。その姿は果たして、李徴本人が言うように「醜い姿」だったでしょうか?, 行き過ぎた「自意識」が、李徴をトラにしてしまいました。また、それをみずから認めたことで、ヒトに戻れなくなることを決定づけました。, そう、まず「自意識」とは、意外と本人だけの問題なのかも知れません。自分自身の視線と他者の視線との間にはギャップがあり、気にしているのは自分だけということが往々にしてあります。そのことを、トラになってしまう李徴を通じて、客観的に眺めることができます。「自意識」が強くなりがちな高校生の時期の教科書にとりあげられる『山月記』には、こうした読み方ができます。, また、自意識とはやっかいなことばかりではないでしょう。李徴がトラになることで身に着けた、ヒト時代の「自意識」よりも、格段にレベルアップした「自意識」では、トラである自分も自分である、と認めることができました。そして最後には、他人のことを思いやることもできました。, しかし、トラになって帰って来られなくなっては仕方がありませんね。『山月記』を「自意識」の物語として読んでみることは、自らがトラになってしまうことを未然に防ぐ意味があるのかもしれません。, 最後にもう一つ。 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔としなかった。 中島敦(1994)『山月記・李陵 他九篇』,p112,岩波書店. 『山月記』とは? 李徴(り ちょう)は、唐の 張読 (中国語版) の『 宣室志 (中国語版) 』にある唐代に書かれた伝奇小説の一編「李徴」の登場人物。 後代に、「李徴」を元として脚色された「人虎伝」にも登場する。また、「人虎伝」をテキストとした中島敦の「山月記」においても登場する 。   しかし、獣どもは己の声を聞いて、 李徴の詩を聞きながら、 その素晴らしさを評価しつつも. 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔としなかった。, 彼は若くして官を辞して詩家を志します。しかし文名は容易に上がらずただ時だけが過ぎ、一年後遂に発狂し行方不明となります。, 翌年、袁傪が陽の昇らないうちに商於の路を通ろうとしたとき、1匹の虎が彼を襲おうと躍り出ました。, しかし、どうしたことか虎は元の叢に隠れ、「危ないところだった」と繰り返しています。, その声に聞き覚えのあった袁傪は、「その声は、我が友、李徴子ではないか?」と尋ねました。, それから李徴は自分の詩のこと、今の気持ち、妻子のことなどを袁傪に全て話し、それを彼に託します。, 夜が明けて、二人の友は別れの時を迎えます。李徴は言います。「前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい」。, 袁傪一行が丘に上って振り返ると、虎が路に躍り出ます。そして三度月に咆哮したかと思うと、また元の草むらへと消えていったのです。, それから、丘の上まで登ったらこちらを向いてくれ。二度と私に会おうという気持ちを起こさせないためにこの姿を見せよう。, (袁傪が丘に上り振り返ると叢から虎が躍り出た。そして三度咆哮し、また叢の中へと消えていった。おわり。), 偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃     誰もが 朝日に目を奪われている時  「何処か欠けるところがある」   唯、懼れ、ひれ伏すばかり。, となってしまう恐怖です。このことで人との交わりに徐々に恐怖を感じ始めたのかもしれません。, これは小説「人間失格」の主人公葉ちゃんこと、大庭葉造の「道化」にも通じるものがあります。, でも地獄のような恐怖が人生で二度、鉄棒の失敗を武一に見破られた時と、検事にハンケチの血のことを疑われた時でした。, 誰にも自分のことを理解してもらえないという孤独はいったいどんな孤独だったのでしょう。, の中で、永野教授という精神医学のえらい先生の講義を聞いた安くんが、先生に質問をしました。, 安: 先生が書かれた本を読みましたが 永訣の朝 4 -語り手はどこにいるか? 永訣の朝 3 -雪のイメージ; 永訣の朝 2 -なぜ頼んだのか? 永訣の朝 1 -全体を捉える; 2学年現代文b 一斉テストについて; 山月記 6 李徴はなぜ虎になったのか? 山月記 5 結論に向けての再検討 でもこれはさだめだと思った。, 理由なき運命の悪意にふりまわされることを嘆く李徴。このやり場のない怒りや自らの無力感は、外部のせいだと言わんばかりです。李徴はこう続けます。, 一日のうちで、ヒトの心を持つ「自分」の時間と、トラになって意識のなくなる「俺」の時間がある。どうやらトラとしての時間の「俺」は、乱暴なことをしているらしい。, 最近では、「自分」の時間よりも、「俺」である時間が増えている。意識を持つ「自分」は、それを振り返るたびにとても苦しい。でも、無意識で過ごす「俺」はその苦しさがない。だからいつか、この「自分」が消えてしまえば、「俺」はしあわせなんだ。, [読み取り方]  今や私の爪や牙に歯向かうものはいないが、 長嘯(ちょうしょう)を成さず但(た)だ嘷(こう)を成す, たまたま狂気のために異類となり、    虎のような生活に身を落とした理由, 天才過ぎたがゆえに人生を狂わせてしまったのでしょうか。李徴の悲しい運命と人生を感じました。, 「自分の才能が不足している」ということを誰かに知られてしまうことは、李徴にとってこの上ない恐怖だったようです。, また、この「羞恥心」の恐怖から逃れるために、李徴は努めて人との交わりを避けたのでした。, 《進んで師に就いたり、 夏目漱石の「こころ」を初めて読んだのは、比較的最近のこと... Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます), https://www.huffingtonpost.jp/entry/may-loneliness_jp_5c5b75f2e4b0faa1cb67c9aa.
ヒトとしての人間の心が消えてしまえば、苦しさから解放されます。苦しみのないトラとして生きた方がしあわせだと、李徴は言うのです。もはや自分が自分であることにあきらめを感じたかのようです。ここでは、「ヒト=自分=意識的」と「トラ=俺=無意識的」という対比が見逃せません。, 自分の作品を語りついではくれないか。

2009.06.23 Tuesday 10:27   誰一人己の気持ちを 私は吟ずることができずただ吠えることしかできない。, 変身譚は昔からあるジャンルで、世界中に色んなお話があります。近代で有名なのはカフカの『変身』ですね。, 『変身』は、主人公がある日突然虫になっていた物語です。作者はフランツ・カフカという人ですが、生きているうちは作品が世に認められませんでした。, しかし、中島敦はカフカがまだ世に知られていないころから彼の作品を英訳で読んでいたことが分かっています。, それだけでなく、カフカの作品に感銘を受けた中島敦は日本でも最初期にカフカの作品を翻訳しています※1。それほどまでに何か通ずるものがあったのでしょう。, カフカは実際にサラリーマン生活をしていましたが、文学に割く時間がもっと欲しいと常に嘆いていました。会社に行かずずっと家に居たい。そういう思いが主人公を家から出ない虫にしたのかもしれません。, そうした中で、李徴と同じような複雑な内面性が育まれたとしても想像することは難しくないでしょう。ただ、それを「虎」という猛獣にしたところに中島敦の自尊心がにじみ出ているような気はします。, 主人公を通して作者へと思いを馳せることも文学の楽しみ方の一つであることを改めて実感させてくれる作品です。, 25才。近代文学が好き。 ことし1学期の『羅生門』『舞姫』につづき、2学期は「読解本篇」がかねて好評の中島敦『山月記』について、その「サポート篇」を、『国語力.com』に掲載して来ました。本日、その第3回の掲載を終えましたので、一部をご紹介致します。 嫌な思いをさせてしまうだろう。 本を読みながら生活するのが夢。, では、袁傪はどのように李徴の話を聞いていたのでしょうか。ちょっと再現してくれませんか?, (作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か[非常に微妙な点に於て]欠けるところがあるのではないか), 恥ずかしいことだが、今でも俺の詩集が様々な人の机に置かれているのを夢見ることがある。虎になって見る夢にだよ。笑うだろう?, お笑いついでに今の気持ちを即席で詩にしたので聞かせよう。なんとかかんとかなんとか・・・・, 先は虎になった理由が分からないと言ったが、分かる気もする。おそらく己の臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせいだ。もっと真剣に取り組めば良かった。だが、それも今さら気づいても遅いことだ。, ふっ、本当は詩などよりもこのことを先に頼むべきだったのだ。これだから虎などに身を堕としたのだな。, これにはおそらくこうした理由がある。袁傪の言葉をほとんどなくすことによって、私の内面がより, たしかに!李徴の遁世に対して袁傪は処世、夢想的な李徴に対して現実的な袁傪、表現者である李徴に対して鑑賞者である袁傪。, なるほど!対比表現によって、袁傪の存在が李徴のキャラクターを引き出しているということですね。, ありがとうございます!虎という身に落ちてしまった李徴の嘆きを表現しているのですね。. 此夕渓山対明月 不成長嘯但成嘷, 偶(たまたま)狂疾に因って殊類と成り 2020年04月28日 09時29分46秒.

トラになって初めて、彼は気づいたのです。「自意識」の強さが原因であったのだと。トラになったことも運命のいたずらではなく、李徴自身が原因なのだと。, しかし興味深いのは、この答えを導き出したものもまた「自意識」だということです。それは、ヒト時代の「自意識」よりも、格段にレベルアップした「自意識」です。トラである自分も自分である、と認めることができたのです。, トラの心になり果ててしまうときが来たようだ。 君は已に軺(よう※馬車)に乗りて気勢豪なり 小説「こころ」の中でK君の自殺の原因としていろいろな... 中島敦の小説「山月記」では、主人公の李徴が虎になってしまったことになっています。 nhk高校講座 現代文 第80回 小説を読む 山月記 (4) nhk ... 李徴が袁傪に自分が人間だったときに作った詩を「伝録」してほしいと頼んだのはなぜか。

中島敦「山月記」の” 臆病な自尊心と尊大な羞恥心 ”は、李徴や一部のこじらせ君に限った症状ではありません。, 自分を特別な存在だと信じて疑わない一方で、動物を殺すことに少し罪悪感を感じている。毎日当たり前に動物を食べるが、毎日当たり前に動物を殺すのは嫌だ。, 会社や学校で奴隷のように扱われてる自分を嘆くけれど、更に弱い動物を搾取している現実がある。それを見つめるのは不都合だ。恥ずかしい。, どっちも大差ないと思うのだけれど・・。李徴は何がひっかかっているのだろう?虎としては自然な行いなのに。まさか遠回しに現代人を皮肉ってるんでしょうか?, 人間は長い年月をかけて高度な家畜供給システムを作り上げたのに、90%の人はその現場を見て見ぬふりしています。見たくねえからって。肉だけ食えればいいからって。, コントロールの効かない猛獣という意味で虎なのでしょうが、現実の虎はこの悩みとは(たぶん)無縁です。虎はあるがままに生きていて、あれこれ自意識をこじらせません。, 群れを作らずに単独で生活するので、自分と他者を比較する必要もありません。自由気ままです。, 「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は青年期特有の症状ではなく、人間が一生かかっても解決できない自意識の壁です。, ダーウィンの進化論が発表された際、当時の知識人たち、特にキリスト教の権力者が頑なに認めようとしなかったように。現代人がペット文化と肉食文化の間で揺れるように。, 私たちにしたって、このままだと後世の人に笑われる可能性大です。だからせめて、肉を食べることの意味ぐらいは思い出したいところです。, それを拒んで虎になるとかほざいてるくらいなら、こっちから望んで獰猛なヒトに戻ればいい。, 「その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤おろしい。」, 「人間はだれもが猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。おれの場合、.