1杯目は、大茶碗にたっぷりの、少し温かいくらいのお茶を。 開戦以前からの徳川方による調略; 2.2 敗因その2. 1591年 秀吉の天下統一. 関ヶ原の戦いには、「もし…だったら」という話がついて回る。そのうちの一つが、西軍として参戦した九州の島津義弘についてだ。, 「もし、島津義弘率いる軍勢が5000であれば…」 【ホンシェルジュ】 室町幕府の権威が失墜した15世紀末から16世紀にかけて、「力こそが正義」だった動乱の時代が戦国時代です。守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも強ければ戦国武将になれる実力社会でした。裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。 目次. http://www.kanko-sekigahara.jp/event/sasaoyama/. 『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月 豊臣秀頼が西軍に加わらなかったため 公式webサイト:http://www.kanko-sekigahara.jp/event/sasaoyama/, 参考文献 では、そんな戦国時代の武将の中でも名高い徳川家康について、生涯の年表や、関ヶ原の戦い、大坂の陣や天下統一などについてざくっと5分でご紹介したいと思います。 徳川家康の年表 北の関ヶ原こと慶長出羽合戦の陣容: 上杉景勝(西軍) 直江兼続本隊2万5千、庄内方面3千: 最上義光(東軍) 総勢7千前後(山形方面は3千、庄内方面4千) 伊達政宗(東軍) 山形への援軍は3千、総大将 … 1587年 - 89年 九州征伐 1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の戦い」。この戦いは、約6時間でその勝敗が決まったと言われています。「徳川家康」の率いる東軍が「石田三成」の率いる西軍に勝ったということは分かりますが、一体なぜそんなに早く決着がついたのでしょうか?, 「関ヶ原の戦い」が起こったのは、1598年(慶長3年)に突如訪れた「豊臣秀吉」の死去から2年後のこと。天下人の死は、野心や忠誠心など、その周りにいた様々な人の心を揺さぶりました。, このように心を揺さぶったのには理由があります。これは豊臣秀吉が死去する前のお話です。関ヶ原の戦いの発端は、実はこの戦いが始まるずっと前から起こっていました。, 天下統一を果たし関白(天皇に代わって政務を任される立場)となった豊臣秀吉。武士として最高位であった「征夷大将軍」には農家の出だったことが理由でなれませんでした。武士の最高位には血筋的になるのが難しかったのです。そこで、豊臣秀吉は公家の最高位である関白を選びました。, しかし、豊臣秀吉は石高を持つ、野心高き日本全国の大名達が、天下を狙っているかもしれないと怖くなったのでしょう。そのため、関白になったのち、豊臣秀吉は関白を絶対的な頂点とするオリジナルの地位を作りました。これが、「五大老」(ごたいろう)と「五奉行」(ごぶぎょう)です。これで豊臣家は権力に脅かされることがないと考えたのでしょう。しかし、このグループ分けが、不満を生み、五大老と五奉行が豊臣秀吉の死後に関ヶ原の戦いを勃発させることとなります。, 五大老と五奉行の役割はこのようなものでした。まず五大老は国や政治を指揮・監督する役割。五奉行は、豊臣政権の豊臣政権を支え、治安の維持を目指すいわゆる実務担当です。五大老を分かりやすく言うと国務大臣で、五奉行は官僚のトップと言ったところでしょうか。五大老は有力大名、五奉行は豊臣秀吉直属の家臣5名で構成されていました。これを「五大老五奉行体制」と言います。, 豊臣秀吉は死期が近づいてきたある日、遺言状を書きました。遺言状を書いた場所は「大坂城」ではなく、京都に建てられた「指月伏見城」(しげつふしみじょう)。この城は豊臣秀吉が隠居を過ごすために建てられたと言われている城です。, これは、浅野家で伝えられてきた「太閤様御覚書」に記されています。さらに、豊臣家に尽くすよう、誓約書を五大老に書かせていたことも明らかになりました。つまり、豊臣秀吉は五大老を心の底で信用していなかったのかもしれません。, さて、このように豊臣秀吉が遺言状を書いたのには2つの訳があります。その訳は、後継ぎである我が子「豊臣秀頼」がまだ6歳であったこと。もうひとつの訳は、豊臣家を守りたかったということです。しかし、遺言状に反する者が出てきました。「たぬき」と陰で言われていた「徳川家康」です。, 徳川家康は、政略結婚が禁止されていたのにもかかわらず、「伊達政宗」や「福島正則」などの諸大名と婚姻関係を結んで親戚になったり、武士の給料である禄高(ろくだか)を多くしたり少なくしたりするのに関与したりと、やりたい放題となりました。, このように、豊臣秀吉の亡きあとに暴走気味にあったのは、豊臣秀吉に不満を持っていたから。「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、時鳥(ほととぎす)」という、徳川家康の有名な言葉にあるように、豊臣家の衰退を今か今かと待っていたのかもしれません。, 滋賀県米原市の「大原観音寺」。この寺には豊臣秀吉がまだ「羽柴秀吉」だった頃の石田三成との出会いが逸話として伝えられています。, 豊臣秀吉が鷹狩りをする際に立ち寄った寺が大原観音寺でした。1574年(天正2年)、佐吉という名前でこの寺に仕えていた石田三成にお茶をお願いしたそうです。, 《石田三成が出したお茶》 島津義弘, そんな状況の島津家に、新たな火種が起こる。関ヶ原の戦いが起こる一年前、ちょうど情勢を見極める大事な時期に、島津家では「庄内の乱」が勃発。「庄内の乱」とは、義弘の子である忠恒(ただつね、のちの家久)が、伏見の屋敷で重臣を斬り殺したという事件である。この時には、既に忠恒(家久)が島津家の家督を継いでいたこともあり、島津家が大いに揺れた。結果的に、殺された重臣の子が籠城するなど、のちに乱となり、鎮圧に時間を要すことになる。その折に徳川家康は、必要であれば援軍を派遣するとの書状を送って、島津家援助の意向を見せていた。, かような事情もあって、「庄内の乱」を鎮圧したのち、慶長5年(1600年)4月、御礼のために義弘は徳川家康を訪問している。このときに家康は、食事をしながら、上杉景勝が上洛しなければ出陣することを告げたという。そして、義弘には伏見城の留守番を命じた。もはや、完全に島津義弘は東軍側であった。義弘自身も、この命を受けて兵を送るようにと、国元に再三再四要請している。伏見城を守り切れなければ「島津家の手落ち」ともなると考えたのだ。実際に、東軍での戦いに向けて準備していたのだ。 関ヶ原の戦いでの島津義弘陣跡, 不本意ながらも西軍として参戦した以上、島津義弘は戦いに手を抜くことはしなかった。本来ならば守るべきはずの「伏見城」の落城に大いに貢献し、その後は三成らと共に大垣(岐阜県)へと向かう。 ※続きは【次のページへ】をclick!. 関ヶ原の戦いが行われた開戦地, ただ、私としては、もっとシンプルな、義弘個人の本能的なものではないかと思う。ただ、武士としての名誉のため。島津家の誇りのため。そんな気がしてならない。正直、あの混乱の中を、さすがの島津義弘も逃げ切れるとは思っていなかったのではないだろうか。討死も覚悟していたが、家臣に生き延びることを説得され、退却を決断。しかし、万が一、後方への退却の途中で討ち取られれば、それこそ九州の国元、代々続く「島津家」の誇りを汚してしまう。逃げ切るにしろ、討ち取られるにしろ「我が島津軍はなにものも恐れず、正面切って前進する」。これまでの武将としての生き方が、そう決断させたのではないだろうか。, 島津義弘は最期まで武将だった。 関ヶ原合戦陣形図 慶長5年(1600年)9月15日正午~午後1時頃/関ケ原笹尾山交流館, 関ヶ原の戦いは、午後になっても相変わらずの状況だったが、「西軍」の小早川秀秋が「東軍」として兵を動かし、さらに赤座直保(あかざなおやす)ら4名が当日の土壇場で西軍を裏切ったことで、一気に東軍に傾いたといわれている。こうして、家康の勝ち鬨(かちどき)の声とともに、西軍の敗走が始まる。, 石田三成は伊吹山へ敗走。小早川秀秋に追い立てられた宇喜多秀家らの軍が島津の陣営へと押し寄せる。西軍は散り散りになり、気付けば島津軍は戦場の真ん中で孤立していた。ここで、島津義弘には幾つかの選択肢があった。最後まで東軍と戦って討ち死にするか、後方の近江(滋賀県)への退却、もしくは前方へ抜けて大垣(岐阜県)への退却である。, そして、義弘が選んだのは、島津軍が一団となって前方へと突き抜けることだった。 『戦国武将の明暗』 本郷和人著 新潮社 2015年3月 関ヶ原の戦いには、「もし…だったら」という話がついて回る。そのうちの一つが、西軍として参戦した九州の島津義弘についてだ。 「もし、島津義弘率いる軍勢が5000であれば…」 「もし、関ケ原の戦いの前日に、義弘が提案した夜討ちが採用されていれば…」 関ヶ原の戦いでの島津義弘陣跡, さて、関ヶ原の戦い後、島津家は徳川家康より所領を安堵される。西軍として戦い、退却時には、徳川四天王の井伊直政を負傷させ、なんなら松平忠吉にも重傷を負わせていた。それでも、島津家の石高は減らずに現状維持。これは、西軍についた武将のほとんどが所領を減らされていることからすれば、例外的な措置といえよう。, 島津義弘の家臣団は、非常に忠義に厚い。自分の身を投じてまで必死に義弘を逃がした長寿院盛淳や甥の島津豊久らからわかるように、その結束力は抜きんでている。これは、義弘自身が、日頃から家臣に対して、同じ一人の人間として接していたからであろう。朝鮮出兵の際に、あまりの寒さに他の陣営では凍死する兵が続出する中、島津軍からは一切出なかったのも有名な逸話だ。部屋の中に囲炉裏を作り、上下関係なく全員が暖を取っていたからだとか。同じ粥をすすり、決して家臣だけに苦労させることはなかった。だからこそ、島津義弘が85歳でこの世を去る際には、殉死することを固く禁じられても、13名もの家臣が追腹(おいばら)をした。死してまで主君に尽くす「義」は、他ではなかなか見られない。, 義弘は、どちらかというと、カリスマ的なリーダーというよりは、人間味ある魅力を兼ね備えた武将であった。これは、義弘が京都から宰相夫人に送った手紙の一節を抜粋したものだ。, 「猶々今夜もそなたを夢にまさしくミまいらせ候て、たゝいまけんさん候やうにこそ候つれ」 井伊家旗, さすがに名だたる武将の追撃は激しく、義弘もこのまま突き切ることができないと判断。反転して追撃軍と対峙するも、目の前に現れた井伊直政を家臣が鉄砲で撃ち落とすことに成功。井伊直政の落馬で、浮足立つ敵陣を見て、再度反転して義弘はさらに前方へと突き進む。しかし本多忠勝らの追撃も執拗だった。そこで、忠臣である長寿院盛淳(もりあつ)が「ご談合は必要ない」と、義弘の意向を聞くまでもなく自らが身代わりとなって時間稼ぎをした。最後まで主君の身を心配した盛淳は、義弘がある程度遠のいたことを知り「めでたい」と喜んだという。そうして、最後には敵勢に押し入り、壮絶な討死を遂げたのである。, 決死の島津軍の突破に、徳川家康も最後は追撃中止を命じたという。こうして、島津義弘は関ケ原を抜け、当初の予定を変更して、伊勢から堺へと抜ける。その後、奇跡的にも人質の女子供らとともに、国元へ帰ることができたのだ。 「清洲会議」で織田信長の後継者争いをした柴田勝家と徐々に対立が深まっていき、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)まで発展しました。これに勝利した秀吉は、天下人へと大きく前進したのです。, 「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)3~11月に行なわれた、「羽柴[豊臣]秀吉」陣営と「織田信雄[おだのぶかつ]・徳川家康」陣営の間の戦いです。合戦があったのは、尾張北部、南部、美濃西部、東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地。北陸や四国、関東でも連動して戦が起こり、戦乱は全国規模となりました。. 織田信長、豊臣秀吉などの強大な権力のもと、豪華絢爛な「桃山文化」が誕生。ポルトガル人やスペイン人などの渡来によって、新しい料理、お菓子などが多くもたらされた安土桃山時代の食文化について、ご紹介します。, 安土桃山時代を象徴する建築と言えば、「城郭建築」が挙げられます。織田・豊臣政権により天下が統一されると、城は軍事拠点から「権力の象徴」としての意味を持つようになり、絢爛豪華な天守閣が造られるようになりました。代表的な城としては、織田信長の「安土城」や豊臣秀吉の「大阪城」などが挙げられます。 2009年1月 スポンサーリンク 3杯目は、お菓子と小ぶりな茶碗に抹茶を注ぎ、茶法の通りに飲むことを勧めたそうです。, この繊細な心配りに、才能を感じ、豊臣秀吉は石田三成を傍に置くことを決意。このエピソードは「三献の茶」として大原観音寺に伝えられています。, 豊臣秀吉の領国経営(検地による領内や家臣達をまとめながら領地拡張していく)を深く尊敬していた石田三成。, 石田三成の才能を高く評価していた豊臣秀吉は、若くて武将としての経験のなかった、仕官して間もない石田三成に三百石の高禄を与えています。, 高禄はいわゆるお給料のことです。一石は約10万円。三百石ということは3,000万円をわずか18歳で与えられたということ。これは、石田家のことが書かれている「霊牌日鑑」(れいばいにっかん)に残されています。, 1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。この戦いでは「織田信長」の死後、家臣であった「羽柴秀吉」と、同じく家臣であった「柴田勝家」(しばたかついえ)の権力争いが激しく衝突しました。「この戦いで次の天下は決まる!」というくらい重要な戦いです。, この戦いでは豊臣秀吉の配下であった「加藤嘉明」(かとうよしあき)、「片桐且元」(かたぎりかつもと)、「加藤清正」、福島正則、「脇坂安治」(わきさかやすはる)、「平野長泰」(ひらのながやす)、「糟屋武則」(かすやたけのり)が大活躍しました。彼らは「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる超エリートの武将達。, もちろん、石田三成も大活躍したであろうと思いきや、その戦いぶりはそれほどでもなかったそうです。石田三成は「戦下手」だったのではないかという説があります。, 石田三成は上司である豊臣秀吉には好かれていたかもれません。しかし、周りにはあまり好かれていなかったようです。これは、石田三成への妬み、恨み、不満などが重なったのが原因だと言われています。, 豊臣秀吉が命じた2度の「朝鮮出兵」(文禄の役・慶長の役)で、石田三成は朝鮮で戦っている武将と、日本の連絡役としての役割を担っていました。, 朝鮮で日本兵は大変苦戦。朝鮮で戦っている武将達からは不満の声が勃発。内容は、「戦略を変えてほしい」というものでした。, 石田三成はそれを素直に豊臣秀吉に伝えます。それを聞いた豊臣秀吉は激怒。戦略の変更を石田三成に訴えた武将達は領地を減らされるなどの処罰を受けました。これが原因で石田三成を良く思わない人もちらほら。, ちなみに、朝鮮へ出兵した武将の多くはのちに起こる関ヶ原の戦いにて東軍と西軍に分かれます。東軍と西軍に分かれた原因が朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)であったかどうかについては、定かではありません。, 豊臣秀吉に仕えていた武将達が朝鮮出兵から戻ってきた1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は亡くなりました。現地には、豊臣秀吉に思い入れの深い武将達もいます。それにもかかわらず、石田三成は朝鮮へ出兵している武将達に豊臣秀吉の死を知らせませんでした。これには、豊臣家に仕えていた武将達が怒るのも無理はありません。, 1599年(慶長4年)、文禄の役・慶長の役での不満が募り、「豊臣七将」と言われた武将達によって、石田三成の暗殺を目的とした襲撃事件が起きました。, 七将とは、尾張清洲城主の福島正則、肥後熊本城主の加藤清正、三河吉田城主の「池田輝政」、丹後宮津城主の「細川忠興」(ほそかわただおき)、甲斐甲府城主の「浅野幸長」、伊予松山城主の加藤嘉明、豊前中津城主の「黒田長政」の7名です。, 実際はこれに、阿波徳島城主の「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)、伊予宇和島城主の「藤堂高虎」(とうどうたかとら)も加わったとされています。, この暗殺未遂事件が起こったことにより、石田三成は京都の「伏見城」へ一時立て篭もりました。その仲介に入ったのは徳川家康です。, これにより、石田三成は譲歩策として奉公を退任、「佐和山城」へ隠居にて隠居することになります。石田三成に不満を持っていた武将達による徳川家康への好感度は上がったことは言うまでもありません。, 石田三成の暗殺未遂事件の黒幕は、徳川家康だったのではないかという説が浮上。それだけではなく、1600年(慶長5年)に起こる関ヶ原の戦いも徳川家康が仕掛けたのではないかと言われています。, このように言われている理由は、石田三成が隠居したあとの徳川家康の行動。石田三成の隠居後、徳川家康は石田三成と仲の悪かった武将を仲間に取り込んだり、豊臣秀吉が遺言で禁じていた戦国大名達と政略結婚を進めたりとやりたい放題でした。これは、遠く離れた石田三成の耳にも届くことになります。, 徳川家康が豊臣秀吉の遺言を無視して動いているという情報が届き、「許せない!」と徳川家康への不信感を募らせる石田三成。, 石田三成以外にも、徳川家康のやりたい放題ぶりをよく思わない武将達がいました。会津の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)とその家老「直江兼続」(なおえかねつぐ)です。そこで、徳川家康に1通の手紙を渡そうということになります。手紙はこのような内容です。, 「最近の貴方の行ないは目に余ります。秀頼様(豊臣秀吉のあとを継ぐ予定だったご子息)に何か言うことはないですか?」, これが関ヶ原の戦いを勃発させることとなったと言われている「直江状」です。この1通の手紙が、徳川家康を怒らせてしまいました。徳川家康は、石田三成や上杉景勝よりもはるか上の位です。徳川家康側からすると「目上の者に向かって、その無礼な手紙は何だ!」ということになります。, 徳川家康は上杉景勝に詰問状を送り返し、大坂城への上洛を促します。それを上杉景勝が一蹴。これにより、徳川家康は「会津征伐」を決意し大坂城から会津へ出向きます。, この征伐では、徳川家康との力量差が明らかとなりました。なんと、会津征伐を行なうために天皇の許可を取ったのです。つまり、国の方針で会津征伐を行なったということ。これは、「自分は目上であるぞ!」という周りへの見せしめでもあったのです。, 大坂城から会津へ向かうため、会津より西は徳川家康が不在となりました。これを見計らって、反徳川派がひそかに西で集結します。集まったのは石田三成をはじめ、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)など。そののち、笹尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)で西軍となる兵を挙げました。, 徳川家康は西軍が結成されたとき小山(栃木県小山市中央町)にいました。西軍の結成を徳川家康は予測していたのです。そのため、これは徳川家康の仕組んだ罠だという説があります。その証拠に西軍が結成されたあと、会津征伐をあっさりと中止しています。, 1600年(慶長5年)7月、徳川家康は会津攻め諸将を下野国小山に集結。集まった諸将はいずれも徳川家康に忠誠を誓っています。これが東軍結成の瞬間です。この小山での軍議はのちに「小山評定」(おやまひょうじょう)として広く世に知られるようになりました。そして、関ヶ原の戦いが始まります。, 「いざ西へ!」というとき、徳川家康は「結城秀康」(ゆうきひでやす)を上杉景勝に対する押さえとして、宇都宮城に残しました。そして、諸将を西へ向かわせているのですが、ここで徳川家康は余裕を見せます。なんと一旦江戸に戻ったうえで、急ぐ様子もなく東海道を西へ上って行きました。この行動からも分かるように、徳川家康には天下への切符が見えていたのでしょう。, 着々と天下へ向けて歩む徳川家康に対し、石田三成は戦術に優れていたわけでも、人徳があったわけでもありません。しかも、関ヶ原の戦いのとき、石田三成が持っていた領地は19万石。このような理由から、西軍の総大将は250万石を持つ中国地方の大名毛利輝元に決まりました。, しかし、毛利輝元は「関ヶ原の戦い」で、指揮も戦いへの参加もしていません。しかも、さっさと降参して大坂城を東軍に引き渡してしまいます。このようなことから、毛利輝元は「東軍の内通者だったのではないか?」という説も。, 表向きの西軍の総大将は毛利輝元ですが、実際に指揮命令を行なっていたのは石田三成です。やはりそれが原因なのか、関ヶ原の戦いのさなか、リタイアする者や裏切り者が続々と現れました。, まず、石田三成の重臣として大きな信頼を得ていた「島左近」(しまさこん)が関ヶ原の合戦中に倒れました。さらに西軍であるはずの「吉川広家」(きっかわひろいえ)が進路妨害。これが原因となり、進路を妨害され動けなくなった西軍の「毛利秀元」(もうりひでもと)が出陣できない理由を「今、弁当を食べているから」と言い訳したことに由来する「宰相殿の空弁当」という出来事も発生しました。このように、吉川広家が味方の進路妨害をした理由は東軍の内通者だったからに他なりません。, 「小早川秀秋」(こばやかわひであき)もあからさまに西軍から東軍へ。裏切ったのは彼だけではありません。その他にも藤堂高虎などが内通者だったと言われています。そのあと、すぐに「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くちきもとつな)も寝返りました。さらに毛利輝元は、東軍の黒田長政から「あなたの領地は安全ですよ」という、西軍が負けた場合の保証(本領安堵)と引き換えに大坂城をあっさり明け渡しました。このように、石田三成の率いるはずだった西軍は、あれよあれよと衰退。これは石田三成にとって大誤算でした。, その後、西軍の人数が減っていることに気付かず、東軍の大坂進軍を止めるべく、関ヶ原の近く「大垣城」へ進出。しかし、東軍は予定よりも早く関ヶ原へ到着していました。この場所で東軍の総攻撃があり、ついに西軍が壊滅。関ヶ原の戦いが始まってからわずか6時間弱のことでした。石田三成は敗戦の際に逃亡しますが、数日後に捕まり、処刑されてしまいます。, 一方、慌てず、動じずに自分が戦いやすいように駒を進めた徳川家康は、泰然自若な天下人。1603年(慶長8年)の2月、徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、270年に亘る長き徳川家の歴史が始まります。, 刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の制作は、東建コーポレーション株式会社と一般財団法人 刀剣ワールド財団、株式会社東通エィジェンシーの共同制作です。. 住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1167-1 病を患い、晩年は食事もあまり口にしなかったが、家臣が戦場であげたような「鬨の声(ときのこえ)」を出すと、義弘は目を見開いて食事を口にしたという。その骨身にしみた「武将としての生き方」が、忠義に厚い家臣を駆り立て、後世まで語り継がれる脱出劇を可能とした。私は、そう信じて疑わない。, 名称: 関ヶ原笹尾山交流館 石田三成像, 国元からは依然として「島津軍」は送られてこなかったが、自らの判断で九州を出たものたちがいる。主君である義弘を守らねばと、家臣たちがそれぞれ兵を連れて五月雨式に集まってきたのだ。兄の義久も義弘の死を望んでいたわけではなく、出兵を止めることもなかったという。その数、最終的に1500近くにまで達したとか。その上、彼らはただの寄せ集めではない。自らの意思で、死も厭わず義弘のために集結した義勇軍である。だからこそ、少数の兵でも、この不可能な脱出劇を成し遂げることができたのだろう。, こうして迎えた関ケ原の戦い当日、慶長5年(1600年)9月15日。西軍の石田三成は関ケ原の北、笹尾山へ陣を置いた。島津義弘はその南の小池村に、そして小西行長、宇喜多秀家なども近くに布陣する。一方で東軍の徳川家康らは桃配山に布陣。さらに、少し離れたところで、南の松尾山付近には小早川秀秋が、その山麓には大谷吉継、家康の背後の南宮山には吉川広家(きっかわひろいえ)、毛利秀元などの毛利勢が西軍として陣取る。 『戦国武将 引き際の継承力』童門冬二著 河出書房新社. 1 関ヶ原の戦いで西軍に所属した武将について解説!; 2 関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因は何だったのか?. 村上新悟さん演ずる直江兼続がキレッキレの「直江状」朗読をぶちかまし、歴史ファンの間で話題になりました。, 次の出番では「伊達と最上がいるからには、先に倒さねばならない」と語り合い、さらに次のシーンで上杉景勝と直江兼続の主従は意気消沈し、既に“戦い”は終わっているのでした。, 戦いとは「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦であり、残念ながら多くの作品で無視されがちな存在です。, 上杉景勝・直江兼続・伊達政宗・最上義光という名だたる大名たちが顔を揃え、まさに役者は揃った状態なのに、ワクワクしない?, 今回は、兼続主演の大河ドラマ『天地人』ですら、何故かマトモに描かれなかった慶長出羽合戦を振り返ってみたいと思います。, 直江兼続が徳川家康に送りつけた超無礼な手紙、「直江状」を機に会津征伐がスタート。このとき東北の二大巨頭である伊達政宗と最上義光は、徳川に味方しました。, 一方、西軍の石田三成は「伊達と最上の妻子を人質として確保しているから、彼らは我に味方するはずだ」との確信を持っていたのでした。, 会津・上杉領の隣に位置する最上義光は上杉攻めの主役となります。家康は他の武将たちに向かい、「最上口から攻め入る者は義光に従うように」と命じます。, 愛する娘・駒姫を豊臣秀吉に無残に殺され、家康に臣従していた最上義光は超絶気合いフルパワー。戦勝祈願の祈祷を行い、準備を整えます。, これに対し上杉家では、相手を迎え撃つため、神指城の建築を進めます。決戦の地を白河皮籠原と定め、景勝の本陣は勢至堂峠に置きました。, しかし、7月25日。肝心の家康が石田三成の挙兵を受けて軍を反転、西日本へと引き返してしまいます。, その理由として、信じられていたのが「背中を突くことは卑劣であり、上杉の義にふさわしくない」というもの。, しかしこれは、“義”の上杉を美化あるいは単純化するために作られた伝説です。現在では家康派を抑え込み、解体することが目的であったという説が有力視されています。, 伊達・最上を放置して家康を追えば、かえって東軍派にその背中を突かれるかもしれません。後顧の憂いを絶つためにも、東北の両家を攻略することは必須でした。, これが2016年の大河ドラマ『真田丸』になると、直江兼続の台詞で「伊達と最上が背後にいる状態では動けない」と説明。最新の研究が反映されたことの一例と言えるでしょう。, 伊達:「百万石のお墨付き」を与えられたのではなく、あくまで「切り取り次第で加増」とされている, まず7月29日、石田三成討伐のため徳川軍を西へ反転させたという一報が、家康から義光に届けられます。, 8月13日前後には、会津攻めのため山形に集まっていた諸大名(南部利直、秋田実季、戸沢政盛、小野寺義道、六郷政載)らが帰国してしまいました。, 要は、大軍で上杉を潰す予定だったのが一転して、攻める側から攻められる側に逆転してしまったのです。, 石高でいうと、最上は24万石で上杉は120万石ですからマトモにぶつかれば、とても敵う相手じゃありません。更には庄内地方の小野寺義道も上杉に呼応する動きを見せ、どうにもならなくなってしまいました。, 家康からは「会津に油断しないように」という連絡が届けられますが、「いやいや、もうどうにもならんでしょ!」状態。, 結果、義光は、嫡子の義康を人質に送ってまで、上杉家に臣従する動きを見せた、という説すらあります。まぁ、ここまで追い詰められた状況ならば、たとえポーズでも、そういう動きを見せなければならなかったのは無理のないところでしょう。, そして9月3日、上杉家は最上攻めを決定。総大将・直江兼続として、酒田方面からは志田義秀が侵攻を開始しました。, 防衛拠点となる城に兵力を集中させ、あとは撤退させる作戦です。最上領内の多くの城は、豊臣秀吉による破却命令を受けて破壊されており、防衛拠点には到底ならない状態だったのです。, 最上:最上義光が上杉に臣従していたという書状は、偽書説がある。ただし、状況からみて時間稼ぎのために臣従を装ったとしても不自然ではない, 小野寺:当初は東軍だったが、状況が変わると「宿敵・最上を討つチャンス」と西軍側についた, 江口光清ら五百名が籠もる城は、13日には陥落。畑谷城に関しては、江口光清が義光の撤退命令を無視して籠城したという説が有力でした。, しかし現在では、防御力を高め、援軍を派遣し防衛拠点とする予定だったものの、敵の進軍が早すぎて失敗したのではないかとされております。, 地元の伝承では「十三夜の餅は、早ぐ食え」という言葉が残されていたとされます。このとき、周辺の領民が十三夜のために餅をついておいたのですが、上杉勢が来ると聞いてあわてて逃げ出し、食べ損なったことを示しております。, またこの地方では、子供が泣くと「カゲカツくっぞ」と脅していたとか。上杉勢が襲って来た恐怖が語り継がれていたのです。, 長谷堂城と山形城の距離はおよそ8キロ。最終防衛ラインです。ここを落とされると、もう後がないのです。, 古くは永正5年(1508年)、伊達稙宗が最上領に侵攻し、長谷堂城を陥落させた際に、当時の当主・最上義定は実質的に敗北した状態にまで追い込まれました。, この城は、規模はさほど大きくないものの、周囲を深田に囲まれ、須川の流れが天然の堀となって行く手を阻みます。城へと通じる道は険しく、守りの堅い城でした。, 山形城から鮭延秀綱らの増援が駆けつけるとはいえ、心もとない状態でした。