準決勝では1年生桑田真澄・清原和博のkkコンビ率いるpl学園に0対7で敗退。清原からは4三振を奪うも、桑田には左翼スタンドへの特大の本塁打を喫している(このときの桑田の本塁打が水野の甲子園での初被弾である) 。 水野 雄仁(みずの かつひと、1965年9月3日 - )は、徳島県阿南市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、野球解説者(所属事務所:有限会社オフィスウィン)。, 1965年9月、阿南市宝田町の餡屋の息子として生まれる。1972年7月、阿南市立宝田小学校1年時に、少年野球チーム・宝田ダックスに入部。1976年、小学5年時から投手になる。阿南市立阿南第一中学校卒業。, 徳島県立池田高等学校時代は、1982年・1983年夏の全国高等学校野球選手権大会、1983年春の選抜高等学校野球大会と3季連続で甲子園大会に出場。1982年夏・1983年春における史上4校目の「夏・春連続制覇」、1983年夏のベスト4進出の中心選手として活躍した。1983年春・夏はエース・4番として出場、その風貌も相まって、「阿波の金太郎」とも呼ばれていた。, 1982年夏の選手権では左翼手として出場、中軸を打ち、優勝に貢献した。荒木大輔を擁する早稲田実業学校との準々決勝では、終盤に満塁本塁打を放った。この試合で甲子園初登板も果している。翌1983年夏は史上初の夏春夏の3連覇を目指して、第65回選手権大会に出場。準々決勝の中京戦での野中徹博との投手戦は、1980年代を代表する好ゲームとしてファンに記憶されている。準決勝では1年生桑田真澄・清原和博のKKコンビ率いるPL学園に0対7で敗退。清原からは4三振を奪うも、桑田には左翼スタンドへの特大の本塁打を喫している(このときの桑田の本塁打が水野の甲子園での初被弾である)[1]。, 1983年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。背番号は「31」となり、現役時代には背番号の変化はないままだった。2年目に肩を痛めてしまい、棒に振ってしまった。1986年には一軍に定着して8勝をマークし、翌年の1987年には10勝をあげ、王監督初のリーグ優勝に貢献した。, 藤田元司、長嶋茂雄両監督時代は中継ぎ、抑えとして活躍。特に藤田監督時代は、先発完投主義の中で希少なリリーフエースとして孤軍奮闘した。バッターとしても、オープン間もない東京ドームで開催された1988年のオールスターゲーム第3戦で、延長12回に代打として登場し、サヨナラ犠牲フライを放っている。しかし、9年目に右肘の遊離軟骨で苦しむなど常に怪我との戦いで1996年限りで一度引退。, 1997年にはフジテレビ・スポーツ報知の野球解説者を務めた。同年秋、メジャーリーグでの現役復帰を目指して、ドミニカのウィンターリーグに参加し、日本人初の勝利投手となった。「現役時代の球速を少しずつ取り戻しつつある」などと言われもした[2]。翌1998年、サンディエゴ・パドレスのスプリング・キャンプに参加したがメジャー昇格はならず、正式に現役引退を表明し、帰国。, その後は再びフジテレビ・ニッポン放送・スポーツ報知の野球解説者を務めた後、1999年、巨人に投手コーチとして3年ぶりに復帰し、2001年退団。以後は日本テレビ、アール・エフ・ラジオ日本、スポーツ報知野球解説者。RFラジオ日本で月曜夜8時から放送の『水野雄仁のGスタジアム』のMCを担当していた。, 2007年より静岡県セイブ自動車学校のCMに出演している(静岡及び東海地区ローカル)。父親が静岡県出身で、さらに叔父が同校の教官(2016年現在、顧問)をしていることから起用された(CMでは「おじさん」と共演している)。2009年には第24回地方CM大賞に選ばれた。, 2018年8月11日、第100回全国高等学校野球選手権記念大会の第7日目、レジェンド始球式へ久々に阪神甲子園球場のマウンドに登場した[3]。, 2018年10月22日、2019年から巨人の一軍投手コーチに就任することが発表された。2001年に退任して以来18年ぶりの巨人復帰となる[4]。試合時はブルペンを担当する。, 巨人が来季コーチ陣発表 1軍は元木氏、宮本氏ら入閣 23日に原、高橋新旧監督そろって会見へ, 別冊宝島1644 名門野球部の甲子園伝説 伝説のチーム編 2009年、宝島社、p3-7, 元巨人・槙原氏が告白 “プロ生活20年間ずっと・・・・・・”(TBS「ジョブチューン~アノ職業のヒミツぶっちゃけます!」2013年5月11日放送分より), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=水野雄仁&oldid=79972336, 水野は池田野球について以下のようにインタビューで答えている。池田の練習は毎日授業を終えた15時から3時間、みっちりバッティング練習をして、残り30分だけ, 水野より1歳上で同じく高校3年で読売ジャイアンツにドラフト1位で指名されプロ入りした, 解説等での一人称は主に「私(わたし)」を用いる。また、「投げれる」といった"ら抜け言葉"を多用する傾向にある。解説者としては比較的厳しいコメントをすることが多く、2015年4月5日の巨人阪神戦で、一緒に試合中継を担当した, 初セーブ:1986年7月26日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、10回裏2死に8番手で救援登板・完了、1/3回無失点.