新選組の浅葱色のだんだら羽織が、あまり使われなかったって本当?じつはコレ本当なんです!あり得ないほどダサくて悪趣味だったというのもありますが、どうやら新選組内部の派閥争いも関係していたんだとか…。今回はその辺をサクッとまとめてみましたー。 Copyright (c)2000 Pt.Jepun Floral Bali All Rights Reserved. 時代まつり等でファンが着るにしても、浅葱色の方が目を引くしトレードマークになりやすいですよね。, しかし、実際に新選組が長く着用していたのは黒装束でした。 ドラマや漫画などでも、ほぼ例外なく彼らは浅葱色の羽織を着ています。, しかし! 第11回「高杉晋作が坂本龍馬に贈ったピストルとは!」 第8回「新選組、新発見史料が語る池田屋事件の真実!」

ここでは、その池田屋事件での逸話の一つ「階段落ち」は本当にあったのか、そして現在池田屋跡はどうな... 「誠」の名のもとに勇名をはせた新撰組、そして新撰組には個性的な隊士たちが集まっていました。 じつはこれ、『仮名手本忠臣蔵』という歌舞伎の赤穂浪士達の舞台衣装をパクったものなんです。, じつは、この時代の浅葱色って、「田舎者」とか「野暮」とか「貧乏」を象徴する色だったんです。, もともと新選組は、京都守護職を務めていた会津藩預かりの組織として、スタートしています。, 当時新選組には、初代局長の芹沢鴨を中心とする水戸派と、近藤勇や土方歳三を中心とする試衛館派という2つの派閥がありました。, 『新選組遺聞』には、近藤や土方などが、このだんだら羽織を着なかったという記録が残っていることから…. ... 幕末の京都で活躍した剣客集団・新撰組。 2019/3/28 現在では、新選組といえば浅葱色で袖に山形の羽織が有名ですね。 ドラマや漫画などでも、ほぼ例外なく彼らは浅葱色の羽織を着ています。 しかし! 史実ではこの羽織、土方歳三はもちろん隊士たちにも不人気で、誰も着なくなった代物な … 新選組には、制服とされた羽織がありました。テレビや映画などでおなじみのあの羽織です。残念ながら実物は一着も現存しておらず、画像も残っていないため、正確にはどのようなものであったかは、はっきりしていません。 それでも、当時の関係者による証言がいくつかあり、おおよその姿を知ることはできます。たとえば隊士永倉新八の談話をもとに記された『新撰組顛末記』には、次のようにあります。 赤穂浪士は実際に … 表現する言葉が見つからず、調べてみました。, 浅葱色(あさぎいろ)とは、蓼藍(たであい)で染めた明るい青緑色です。 目撃した会津藩士にとっても、袖に山形模様が入ったデザインの羽織は、奇抜で目を引くものだったのでしょう。, 「しかし、これは全部に行渡っていないので、まあ主立った人が十人に一人か二人位着ていた程度のものです。余りいい服ではありませんので、自然誰も着なくなりました。勿論近藤だの土方だのという人達は着ませんでした」, この部分は合本版『新選組始末記』でも変わらずに収録されているので、基本的には事実が記されているのでしょう。ただ十人に一人か二人というのは言い過ぎで、「鞅掌録」という会津藩の記録に「浪士時に一様の外套を製しーー」とあるように、揃いのデザインの羽織が少なくとも初期には制服として使われていたことは間違いありません。, あまりいい服ではないというのは、そもそもこの羽織は麻でできていて、夏服として使用することを想定されたものでした。傷みやすい麻製であったことが、この羽織の制服としての寿命を縮めた一因だったといえるでしょう。, それよりも、談話のなかにある近藤勇や土方歳三は着なかったという部分が気になります。局長も副長も着ないのでは、制服としての意味がますます薄くなってしまうのではないでしょうか。, おそらく制服の羽織を赤穂浪士の装束に似せて作成しようと提案したのは、近藤でも土方でもなく、初期新選組の実権を握っていたもう一人の人物――すなわち芹沢鴨だったのでしょう。近藤も赤穂浪士好きで知られていますが、自身が着ようとしないのでは、羽織のデザイン提案者とは考えられません。, 芹沢の死と時期を同一にして制服羽織が廃れていったように見えるのも、おそらくはそれが大きな理由だったのでしょう。近藤・土方体制で生まれ変わった新選組にとって、芹沢の残した羽織はもはや無用のものだったのです。, その後の新選組は、黒い羽織と黒い袴で揃えた黒づくめの制服を導入したと伝わっています。, あなたの知らない新選組の姿がここにある!滅びゆく江戸幕府に殉じた新選組。彼らは単なる人斬り集団ではなかった……。 2: この世全ての名無し 2020/10/10(土) 10:06:09. 一人だけ全盛期が結成初期じゃないのがひどい. 浅葱とは薄い葱の葉に因んだ色で、 平安時代にはその名が 見られる古くからの 伝統色。 幕末に 新撰組のダンダラ模様の羽織の色 として使用されたことが有名で、伝統色の中でも最も人気の色の一つ。 まず「浅葱色」というのは薄い藍色で、今の感覚でいう水色に近い色です。 新撰組の羽織は浅葱色にダンダラ模様と伝えられていますが、残念ながら本物の羽織は現存していません。 デザインは局長近藤勇が赤穂浪士を尊敬していたことから、赤穂浪士の羽織をもとにして作られたと伝えられています。 赤穂浪士の羽織は黒でしたので、色だけ浅葱色にしたと考えられますが、なぜ浅葱色にしたのかは明らかになっていません。 た … 第5回「“新選組が誕生した日”は何月何日なのか?」 ここでは、その資料館と新撰組ゆかりの観光スポ... 新撰組は「組」なのに、なぜトップの近藤勇が「局長」と呼ばれたのでしょうか。 階級制のような物は前時代からあったのですが、それを宗教にからめたのが『発明』というか『退化』というか。。。, インドネシアや日本にも辿り着いたというタルシン船を追いかけて行くと、邪馬台国やヤーヴァドヴィーバ、そしてアンガ国のルーツが見えて来ました。, 西郷隆盛の『隆盛』って、本名じゃないってご存知でした?じつは、西郷さんの本当の名前は『隆永』!このページでは、『隆盛』になってしまった理由について簡単にまとめました!歴史好きの方も「ほー、なるほど!」なんて、楽しめるかと思いますのでぜひご一読を!, 伊賀忍者の有名人の名前や苗字、ルーツや末裔のその後について、史料をもとに簡単にまとめました!服部半蔵って、伊賀忍者に煙たがられてたって本当?百地氏と藤林氏って、どうして謎に包まれてるの?なーんて真相にも迫っています。歴史好きの方はとくに、ぜひご一読ください!. shinsengumi@history. 第3回「坂本龍馬・寺田屋遭難事件の真実を探る!」 最後に目撃されたのは、元治元年6月、池田屋事件の二日後です。, となると、新選組隊士が浅葱色のダンダラ羽織を着ていたのは、初期のほんの一年二か月ほどだけということになります。, 以降、史実の新選組は黒装束であったと言われます。 もしくは近藤局長が、徳川の忠義の士!という組織のイメージにぴったりな忠臣蔵を、是非にとデザインに取り入れたのか?

新選組が屯所にしていた京都壬生の八木家の為三郎少年が、晩年に語った談話が『新選組遺聞』(子母沢寛著)に収録されていて、そこでは羽織のことがこのように記されているのです。, 「隊服というのがありました。浅黄のうすい色のぶっさき羽織で、裾のところと、袖のところへ白い山形を赤穂義士の装束のように染抜いてあるのですが、大きな山で袖のところは三つ位、裾が四つか五つ位でした」, ここでは山形の数まで詳細に記されていて、袖と裾の両方に入っていたとされています。実際に羽織を見たことのある八木為三郎が証言しているのですから、基本的には信頼の置ける情報でしょう。, ところが、『新選組遺聞』はのちに子母沢寛自身の手で『新選組始末記』、『新選組物語』とともに合本され、合本版の『新選組始末記』として再編集されるのですが、そこでの為三郎談話では「隊服というのがありました」に続く羽織の詳細がなぜかカットされているのです。, 理由はわかりません。深読みをすれば、デザインのことを為三郎は特に語っていなかったのに、つい子母沢寛の筆がすべり、あたかも語ったように書いてしまったということも考えられます。, 新選組の羽織は、京都で密接な関係にあった会津藩の史料のなかにも、いくつか目撃記録があります。, 「壬生浪人と号し居候者共五十二人、一様の支度致し、浅黄麻へ袖口の所計白く山形を抜候羽織を着しーー」(「騒擾日記」) 真相は不明ですが、どちらかがそう注文した可能性はありますね。, 文久3年4月21日、京都から大坂に行く将軍家茂の警護のため、会津藩士広沢富次郎が会津藩お預かりだった壬生浪士組を引き連れて大坂へ向かっています。 今後、黒装束で統一された新選組のドラマなんかが出てくると、逆に斬新で見てみたいですね。 現在では、新選組といえば浅葱色で袖に山形の羽織が有名ですね。 ¡ãŒæ®‹ã£ã¦ã„ます。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。. ここでは、どういう事情で「局長」という役職名が選択されたの... 新撰組といえば池田屋事件が有名です。 2020/10/12 fgo, まとめ 21. 確かに、おしゃれ番長のような土方さん、着なかったと言われるとうなずいてしまいます笑, 文久3年4月に誕生した隊服ですが、いったいいつまで着られていたのでしょうか。 しかしこの二つの組織には決定的な違いがあります。... 戊辰戦争とは、薩摩・長州・土佐藩らを中心にした新政府軍と、新撰組ら旧幕府勢力らが戦った、一連の戦闘のことを指します。 第7回「伊庭八郎、箱根山崎の戦いで左腕を失う!」 その際の様子を、「浪士時に一様の外套を製し長刀地に曳き或いは大髪頭を掩へ」(『鞅掌録』)と記録しています。, 会津藩士山川大蔵も、この日浪士たちが同様に揃いの服装であったことを記録しています。, 新選組が屯所とした京都壬生の八木邸の次男・為三郎は、「浅黄の薄い色のぶっさき羽織で、裾のところと袖のところへ白い山形を(中略)染め抜いてあるのですが、大きな山で袖のところは三つ位、裾が四つか五つくらいでした」(『新選組異聞』)と語っています。, 公卿・八条隆祐の手記には、「羽織は浅葱にて、誠という字を染め込みありし由」(『八条隆祐卿日記』)とあります。, 文久3年8月18日に、京都御所で八一八の政変が起こります。