2007年〜2012年 Tweet, 「ひとりで家に閉じこもったりしないで、友だちをつくってください。若いひとでもお年寄りでも」  6月20日に映画「愛を積むひと」が封切られた。 公開にさきがけて、この作品に寄せて新聞に2本のエッセイを書いた。広告の意味合いがあったけれど、「ほんとの感想しか書かないぞ」と誓って、試写を観る。 じつにいい映画だった。 登場する人物ひとりひとりにリアリティがある。配役が的確ということになるのだろう。静かな、そして濃厚な125分を過ごした。 第二の人生を大自然のなかで送ろうと、東京下町の工場(こうば)をたたみ、北海道(美瑛町)に移って来た夫婦、篤史と良子。見るからに愛情あふれるふたりだが、来し方には苦労の日日があり、悲しみがひそんでいる。そんな事ごとを浄化して、これまでとは異なる受けとめ方をしようとするかのような静かな暮らしがはじまる。育まれ見守られてきた庭のハマナス。ベーコンとバター入りのおみおつけ。結婚以来妻の誕生日に夫が贈りつづけた一粒の真珠の連なり(ネックレス)。そしてそして、長年の憧れだった石塀作り。 いろんなかたち、いろんな大きさの石がひとつひとつ積まれてゆくように、夫婦のあたらしい時間はかたちを成してゆく。けれど、それは長くつづかなかった。数年前から患っていた心臓病によって、良子がこの世から旅立ってしまったのだ。 そう、冒頭の妻からの手紙を夫は、この世に残された悲観のなかで受けとったのだ(生前綴られた手紙が幾通も、大事なモノのなかにひそんで、みつけ出されるそのときを待っている)。 この映画の、大切なテーマのひとつである手紙。 手紙がこの世とあの世に隔てられた夫婦のあいだをつなぐのである。そうして、それは光を放って、周囲をも照らす。 映画公開初日の舞台挨拶で、篤史を演じた佐藤浩市が涙を流した。 良子役の樋口可南子が代読した妻からの手紙が、そうさせたのだ。 舞台上で読み上げながら樋口可南子も涙するほど清清しい手紙は、こう結ばれていた。「浩市さん、わたしは浩市さんをひとりにしないように、浩市さんよりも1日でも長く生きることを、約束します」 映画のなかの妻のように、死を覚悟したとき、夫に手紙を残してゆくようなことを、わたしはできるだろうか。もし書けたとしても、「お風呂にちゃんと入ってください」とか、「わたしの荷物はすっかり片づけて、こじんまり・こざっぱり暮らしてください」とか、「ぬか漬けとヨーグルトはつづけたらどうかな」とか……。つまらないことを書いてしまいそうだ。 この世にあって、あとどのくらい便りができるかしら。友だちや、娘たちや、師や、仕事仲間への手紙。夫への置き手紙も、そのうちかもしれない。 そう考えながら、友だちに書いたはがきに、思わずわたしはこう書いていた。「ユウコチャン、(手紙は)長くても短くてもいいことにしよう。書きかけもいいことにしない?」※ 「愛を積むひと」 監督:朝原雄三 脚本: 朝原雄三 福田卓郎  原作:『石を積むひと』エドワード・ムーニー・Jr  出演:佐藤浩市 樋口可南子 北川景子 野村周平     杉咲花 吉田羊 柄本明ほか, わたしの仕事場は、居間の一部に棚を隔てて在ります。向こうには台所も見えています。このほど、机右側に、コルク版をはめこむことに成功しました。映画「愛を積むひと」のチラシ、貼ってみました。, 2015年6月23日 (火) 日記 | 固定リンク 著書 『元気がでる美味しいごはん』晶文社 1994 「元気がでるふだんのごはん」講談社文庫 | コメント (40) 数本の映画主題歌もレコーディングした。日産自動車、ウテナ化粧品等の広告モデルも務めた。, 戦後、『暁の大地に咲く』(1949年)への映画出演を最後に映画界を引退し、母と共に東京都港区芝公園で料亭「山路」を経営する実業家に転身した。1964年に母の目の病気を機に料亭を廃業した後に、当時の日本の医療器具では母の目の病気を完治させることが不可能であったことなどから、その土地と建物を売却して得た私財の内、半分以上にあたる一億円を基金として擲ち、「日本の科学の発展の為に寄与する。」という目的で「山路ふみ子自然科学振興財団」を設立して助成活動を開始し、今度は社会事業家として名前が世に知られるようになる。, 1963年に東京都善行銅賞受賞、同年、「中央公論・婦人公論」最高殊勲夫人に推された。1972年に藍綬褒章を受章。, また、1976年5月に映画人を育成して、功績のあった人を賞賛すること、ならびに教育・文化・福祉事業への支援活動を行うために、私財を投げ打って「山路ふみ子文化財団」を設立。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=山路ふみ子&oldid=79518258, 1930年代に個人で自家用車を保有し、運転免許を取得して自ら車を運転をしていた、数少ない日本人女性ドライバーの一人である。. | コメント (24) | コメント (29) 山本ふみこさんのうふふ日記 山本 薩夫(やまもと さつお、1910年 7月15日 - 1983年 8月11日)は、日本の映画監督である。 鹿児島県出身。 早稲田大学 文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。 息子の山本駿、山本洋も映画監督。 山本ふみこさんのうふふ日記 Tweet, 6月◯日 教育委員会制度が変わって、2か月半が過ぎた。 制度としては教育委員の権限が失われてゆく方向にあるのだと思うが、わが武蔵野市は教育委員会の体制は変わっていない。でもほんとにそうなのかしら……。 そんななか、きょうメールが届いた。 教育委員としても大先輩のTせんせいからのものだった。「私は教育委員長という、行政とも議会とも違う、ひとの気持ちに立った『立場』をなくすことに心底、反対でした」 とある。 少し前に送った、教育委員会の考えが尊重されるように……という決心を綴ったわたしのメールに対する返信(一部)。 Tせんせいのメールを読んで、自分がほんとうは、空中に張った一本の綱の上に立っていることを認めないわけにはいかなくなった。当市の教育委員会の体制が変わっていないと云っても、たとえば市長と教育長が替わったならどうなるだろう。という意味においてでさえ、相当に不安定だからだ。 晴れた日に綱の上を歩きはじめたのはいいが、雨風(あめかぜ)のなか揺れ動く綱の上にわたしは取り残される日もめぐってくるかもしれない。気がつくとわたしは呟いていた。「ひとの気持ち」 Tせんせいから受けとったそのことばを、口のなかでくり返しているのである。 どんな役目を担っても、どんな仕事に就いても、わたしの権限などいつもはかないものだった。しかし、わたしは権限より大事なものを、ぎゅっと握りしめてきたつもりだし、死ぬまでそうしていたいと希っている。 さて、権限よりも大事にしてきたもの。それが、ひとの気持ちだ。 Tせんせいのメールは、こう結ばれている。「どうか、出来ることを十分に楽しまれますように、祈っています。山本さんが楽しむことが、誰かの安らぎにつながるでしょうから」 そうだ。もしも、ひとの気持ちが無視され、ないがしろにされたら、わたしはいつまでも綱の上に取り残されてなんかいないで、飛び降りて、オオカミになって走って行って、できることをしよう。6月◯日 チョウコチャンの家に遊びに行く。 チョウコチャンはわたしの手をとって、家じゅうを案内してくれた。台所の戸棚のなか、地下の倉庫、本棚、家族の作品(紙でつくった監視カメラやドールハウスや、版画。ほかにもたくさん)を見せてくれた。なんと愉快な、愛にあふれた家だろう。 まるで聖堂のよう。部屋の隅(大振りの器がしまってある地下でもいいかな)でまるくなってみたい。まるくなって眠ってしまうかと思いきや……わたしはそっと祈るのだ。ひともわたしも、愛する力を持てるように。目の前の芳(かんば)しくない事ごとさえもまず愛してみるか、と思えるように。, 6月◯日 手の先に色気のようなものが出ている。 その手を、ぬか床にさしこむ。 あはは。カナコチャンに「ぬか床を分けてください」と頼まれてから、ずっとこんな調子だ。 このたびぬか漬け生活を開始しようとしているカナコチャンには、炒りぬかで床をつくっておいてもらうことにした。そこへうちのをひと握り混ぜるという計画。 つまりわたしは「ひと握り」に色気を出している。カナコチャンの家のぬか床にいい具合に混ざろうと、色気づいているのである。6月◯日 夕方、ゼラニウムの苗を買いに行く。 通りに面したアイビーの生け垣の根元の、レンガのプランターに、ずらりとゼラニウムを植えこむことを思いついた。みどりの蔦(つた)とゼラニウムの紅い花。こんなことを思いついて実行に移すのは、家事でも趣味でもないわ。旅そのもの。 帰ってシチュウをつくるあいだ、夫が土の準備をしてくれる。植えこみは、明日。 植えこまれるのを待っているゼラニウム。はるかな場所に運んでくれる、紅い同行の友よ。, 2015年6月16日 (火) 日記 | 固定リンク