1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 社会人経験や国語の知識を活かし、秘書検定やビジネスマナー、国語などに関するライティングを主に行なっています。. また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 山月記は日本でも有名な小説です。その中でも山場の1つである「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というセリフはとても有名です。この記事では山月記の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が指す意味や言い換え、その心理や行動についてご紹介します。   高校の国語の授業で扱われることも多い、中島敦『山月記』。 教科書の定番『山月記』ですが、その内容はなかなか難しい語句が多く、初めて... 「慟哭」は嘆き悲しんで泣くことですが、「号泣」は声をあげて泣くこと全般を指すので、悲しみの涙に限らず幅広く使えるのです。. 『山月記』の授業ノートです まとめ部分は上段があらすじ、下段が人物の様子や感情などです ️・していただけると嬉しいです。 学年: 高校全学年, キーワード: 山月記,中島敦 それでは『山月記』の続きです。 ⑥-8 しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。 今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己《おれ》はどうして以前、人間だったのかと考えていた。 // , 中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!, 山月記シリーズも一応、今回が最終回。 ここまで、李徴が虎になった理由について考えてもらいながら、それを全部順番につぶしていく、という卑怯きわまりない手法を使ってすすめてまいりました。 というわけで、今…, 山月記シリーズも四回目です。 今日は李徴が虎になる3つの理由の最後。 詩への執着心です。, 山月記の解説シリーズ第3回目となりました。 1回目では、李徴が虎になる理由を本文から拾いました。 今日は、李徴が虎になる3つの理由の二つ目「家族を省みない」「人間性の欠如」について、考えます。, 山月記の2回目です。私からの課題は「李徴はなぜ虎になったと思うか」です。 正確にいうと「李徴が考えた虎になった理由をあなたは認めますか?」ということですね。まずは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」です。 前…, 「走れメロス」に続いて定番教材シリーズは、「山月記」中島敦です。 だいたい、高校2年生に配当されております。 この作品をもう一度読み直してみたい、授業を展開してみたい、というシリーズです。, 「山月記」のテーマはどこにあるのか?読みや解釈は自由であることと定番教材としての国語, センター試験直前!最後に国語でやっておくこと。最後まで「あがく」7点を積み重ねるアドバイス!, 山月記5 李徴は虎になる理由なんてあるのか…「月にむかって吠える」教科書定番教材シリーズ, 山月記3 李徴はなぜ虎になるのか?「妻子をかえりみない李徴」 教科書定番教材シリーズ, 山月記2 李徴はなぜ虎になったか「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」 教科書定番教材シリーズ. HOME(漢文記事一覧) [ 語句 ] ・ 漠然 … ぼんやりとして不明確なさま ・ 嘲る … ばかにして悪く言う、笑う 中島敦(あつし)の短編小説。『文学界』1942年(昭和17)2月号に、短編『文字禍』とともに『古譚(こたん)』という総題の下に載る。同年7月、筑摩(ちくま)書房刊『光と風と夢』に収録。中島敦のデビューを告げる作品。原稿では前記2編のほか『狐憑(きつねつき)』『木乃伊(みいら)』をあわせ全4編で『古譚』を形成。ともに古代世界を舞台とし、尋常ならぬできごとが展開する短編である。芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の再来という評もあった。ことに『山月記』は、中国唐代の伝奇『人虎伝(じんこでん)』を素材として、「詩をつくること」にとらわれてしまった人間李徴の劇的な運命を、虎(とら)と化しながらなお人間の心をもつという臨界状況の下に描く佳作である。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例. 『山月記(中島敦)』ご存知ですか。 高校の教科書に載っていた、主人公の李徴(りちょう)が虎になってしまう、有名な話です。 最近、尊敬している上司が教訓にされていると聞き、久しぶりに読んでみ … 高校の教科書でおなじみの名作、中島敦の『山月記』は難しい言葉が使われていることでも有名(?)ですが、ここにも「慟哭」が出てきます。, かなりドラマチックな印象の「慟哭」ですが、正確にはどういう意味の言葉なのでしょうか。, 今回は、「慟哭」の意味と使い方!「号泣」との違いは?【山月記】についてご説明いたします!, 論語に「子之を哭して慟す」という一節があり、孔子が弟子の顔淵の死に際して慟哭したということで、「慟哭」はかなり激しい悲しみを表すことがわかります。, 「哭」の方も「大声で泣く」という意味で、「号哭」「痛哭」などの熟語もありますが、いずれも「大声で泣く」「大声で嘆き悲しむ」意味になります。, つまり、「慟哭」は嘆き悲しんで泣くことですが、「号泣」は声をあげて泣くこと全般を指すので、悲しみの涙に限らず幅広く使えるのです。, 言終って、叢中から慟哭の声が聞えた。袁もまた涙を泛べ、欣んで李徴の意に副いたい旨を答えた。(「青空文庫」より抜粋), 言い終わって、草むらの中から慟哭の声が聞こえた。袁傪もまた涙を浮かべ、喜んで李徴の希望通りにしたいということを答えた。, 詩人になる夢破れ虎になってしまった李徴が、自分が虎になった理由を色々と自嘲的に述べ、また自作の詩を袁傪に記録してくれるよう頼みます。, 妻子には自分は死んだと伝えて欲しい、それから彼らが飢えることがないように面倒を見てやって欲しいというのです。, 色々な読み取り方ができると思いますが、単に「泣いた」などではなく「慟哭」という語を使うことで、李徴の感情の高ぶりの激しさ、悲しみが強く表現されていますね。, 悲しい場面で使うような言葉ですが、強い印象を与える言葉なので、小説やテレビなどでもよく効果的に用いられています。, 大学卒業後、出版社にて秘書・経理補助などの職種を経験。

©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 退職後は塾講師、高校国語(現代文、古文、漢文) (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 「慟哭」の意味 「慟哭」は「声をあげて激しく嘆き泣くこと」という意味です。 「どうこく」と読みます。 論語に「子之を哭して慟す」という一節があり、孔子が弟子の顔淵の死に際して慟哭したということで、「慟哭」はかなり激しい悲しみを表すことがわかります。

「山月記」の解説、授業展開については、すでにまとめてありますが、今日は、「山月記」のテーマは本来どこにあるのか、ということと、国語の授業の問題点をまとめてみたいと思います。 [CDATA[ の添削指導員などを経て、長女を出産後は在宅でライターをしています。 「山月記」の解説、授業展開については、すでにまとめてありますが、今日は、「山月記」のテーマは本来どこにあるのか、ということと、国語の授業の問題点をまとめてみたいと思います。, 教科書定番教材シリーズはこのブログでも、一定の読者を持っている部分のようです。おそらく、授業準備にあたる先生と、試験を受ける生徒たちのニーズがあるものだと思われます。こういうことを、先生も生徒も「検索」する時代が来ているんですね。昔だったら、図書館に行って、文献をひっぱっていたはずなのに。, ここまで「走れメロス」「山月記」「こころ」「舞姫」と小説については展開してきましたが、ネットで検索してみると、さまざまな解説がならびます。しかしながら、ささいな違いはあるにしても、大枠の解釈は決まっているというか、同じ観点について議論しているというか、結局、国語の授業の枠組みをベースとしているんだろうなあ、と思うんです。反国語の授業をうたっていても、同じ観点で見方を変えているというか。, 偉そうにいったところで、普通の国語の授業を逆手に取ったのが、私の解説でもあるので、まあ、乗っかってるんですけどね。, というわけで、今日はどちらかというと、教員向けというか、文学部の方向けというか、そんなテーマになっております。, 読んでいただいた方にはわかると思いますが、「李徴が虎になる理由」を考えながら、ひとつずつつぶしていき、最終的に「理由がない」、そして「本当かどうかわからない理由を1人で考えながら、それをはき出すこともできない孤独、そして聞いてもらうという癒やし」というようなテーマで説明しています。, これは、当然、国語の授業で「李徴が虎になる理由」を考えさせ、そしてそれを「臆病な自尊心」に求め、まとめているんだろうという前提があり、「いや、そうじゃないでしょ。理由なんてないし、そもそもテーマは、虎になる前も、虎になった後も、自分のことをわかってもらえないというそこにあるんじゃないの?」という問いかけでもあるわけです。, 一番の疑問は、あの作品を読んで、どうして、「こういうところが虎だよね」という、李徴を責め立てるような展開になるのか、ということです。, 文学作品の読みを深めるために、表現にこだわるということは大事です。その過程で「臆病な自尊心」の内実に迫るということはあり得るでしょう。でも、それが、「やっぱりこれが虎だよね」とか「こういうところが普通じゃないよね」というような、授業になっている気がして仕方がない。, 授業者には、その自覚がないかもしれません。でも、「臆病な自尊心」を虎になる理由として深めるということは、因果応報的な結論を導くわけで、それは自業自得であるとか、そういう印象を与えていることになりませんか?, そうすると、中島敦は、この作品を通じて「教訓」を与えたかのような読みにも通じていきます。, 私の印象は、何回読んでも、そういう教訓を感じない。「臆病な自尊心」の罪のような部分は感じなくはないです。それは、李徴も言っていますが、「悔い」のようなものですね。そんな気持ちになっていなければ…。もっと、切磋琢磨していれば…。少なくとも「しないから虎になるんだぞ」というようなものではないです。, 今回のものでも書きましたが、一番「虎」のように感じるのは、詩人への執念のようなものです。そういう観点で考えれば、「臆病な自尊心」はもっともこれを妨げる虎らしくない部分に感じます。そして、もちろん、その執念を持ちながら、虎となってしまったことへの「無念さ」に一番私は共感するんです。, それは、人それぞれの読みなのかもしれません。でも、とにかくありとあらゆるものが、「臆病な自尊心」であり、「虎になった理由」に集約されていく。事実、このブログの検索も、ほとんどこれでされているわけです。, そういう人たちに、この記事は、期待していたものではなく、受け止められているのか、それとも一石を投じられているのか、気にはなる部分です。, さて、どうして、こんなことが起こるのでしょうか。一因としては、古く、誰かがこういう展開をして、そういう教えを受けた人が教員となり、同じような授業を展開するという、伝統の継承が起こっているとはいえますが、どうして、こういう指導が続いていくのでしょうか。, これを教員の主体性で考えれば、教えられたことを継承するという問題であるとはいえます。時代は変わっているのに、いつまでも昔と同じように教えていく、ということですね。これは本来、新しい教材を発見したり、時代にあった教え方を開発したり、そういうことって必要なはずなんですが、実際にはとにかく何か決めごとのように同じ教え方を再生産していく、ということなんでしょうね。, 方法論としてはアクティヴラーニングなんて言葉が入りましたが、そこからたどりつくところが、昔と同じ理解であるとするなら、それは結局本質的な変化ではないんだと思います。, ある作品が与えられる。その作品は、古典として現代の生徒たちに理解することが難しくなってくる。そうするときに、どういう作業を国語の先生はするのか?本来、国文学をやっていたであろう国語の先生は、本来、文学的なアプローチをしたいはずです。そう考えるなら、中島敦の作品を読み込んで、作家論的なアプローチもできるはず。でも、そんなアプローチは教室では重すぎるし、ついてこれないリスクもありそうです。, じゃあ、どうしよう?そういうとき、国語教員は、生徒達が理解できるレベルに落とし込む、という方法論に流れやすいのだと思います。もうちょっとわかりやすく書くと、現代的なテーマにおとしこむということです。, 現代の生徒でも抱えている現代的なテーマにすれば、自分に置き換えて理解ができますからね。, でも、私はそれなら定番教材はやらなくてもいいのではないかと思います。最初から現代的なテーマの作品をやればいいのではないか。, 私自身は、現代的なテーマの作品も好きですね。村上春樹の「蛍」とか、吉本ばななの「キッチン」あたりは教材化をしました。だから、現代的なテーマを扱うことも意味のあることのような気がします。, でも、古典的教材を、作品の読み自体を変えてまで、現代的なテーマにもっていくことは、国語というよりは、道徳というか、生き方というか、人生論というか、悩み相談というか、自己主張というか、そんなことのような気がします。, 実際、これらの作品は、最終的にこういったテーマで討論したり、意見を書いて文集にしたりする取り組みも多いような気がします。, でも、だったら、最初から、「恋愛と仕事(勉強)どっちを優先する?」とか、「友と好きな人とどっちをとる?」とか「何もかも犠牲にしてかなわぬ夢を追い続ける生き方についてどう思う?」とか、最初から討論にすればいいわけです。もちろん、作品を読むこともやれるわけだから、こういう取り組みを悪いとは言わないし、討論が盛り上がれば、それはそれで、発表し議論する能力を伸ばしますから悪くはないんですけど、その代償として失われていく、作品を作品としてきちんと読む力、というか、登場人物を自分と違う他者として理解する力が失われているわけです。, 議論や討論をするためには、他人の意見をしっかりと聞いて、その上で自分の意見を述べていくことが必要なはずです。, でも、作品をベースにするなら、まずは作品の読み、つまり、そこにいる他者をしっかり読み取ることが大事で、自分に置き換えたり、ひきつけたりすることはあまり感心できることではありません。, 解釈は自由。多様に読むのもあり。でも、そういう言葉を使って、結局、作品という他者の声を自分の都合のよいように利用するとしたら、討論としてもあまり意味をなしていない気がするんですね。, というわけで、もしかしたら、定番教材は曲がり角に来ている気はします。でも、国語の教員としては、古典としての定番教材をしっかりおいて、日本文学とその時代というようなものを理解してほしいなあ、と思ったりする今日この頃です。 山月記の語句の意味や漢字の読み方は? 山月記には読み慣れない語句や漢字が多く出てきます。 もし定期テストまでに時間があるのであれば、どのような語句や漢字があるのかを理解してそれぞれの意味や読み方を覚えておく方が良いです。