やる前から、何を言っておるのでしょうか。 朝潮 太郎(あさしお たろう、1955年12月9日 - )は、高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。現在は年寄・7代高砂浦五郎。本名は長岡 末弘(ながおか すえひろ)、現役時代の体格は身長183cm、体重183kg。得意手は突き、押し、左四つ、寄り。, 近畿大学3年生の1976年から翌1977年にかけて2年連続で学生横綱とアマチュア横綱の2つを同年度に獲得する活躍を果たし[注釈 1]、1977年12月7日、高砂部屋を訪問し、入門する意思を伝えた[1]。1978年(昭和53年)3月場所幕下付出(60枚目格)に本名「長岡」で初土俵。同年7月場所新十両、11月場所新入幕。1979年(昭和54年)3月場所「朝汐太郎」と改名。1982年(昭和57年)11月場所「朝潮」に改名。1983年(昭和58年)3月場所後大関昇進。1989年3月場所引退[2]。, 子供の頃から大きかったため「大ちゃん」と呼ばれ[3][4]、相撲を知らない人でも名前だけは聞いたことがあるという人が多かったほどの人気を博した大関であった。, 高知小津高時代から相撲を始め、近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得[3]。最終タイトル8冠というその好成績から幕下付出が認められ、1978年3月「今度はプロの横綱を目指します」と当時古参幕下力士の少なかった高砂部屋に入門。後に本人が語るところによると、5代高砂は長岡の両親に対しては「息子さんをくれ」の一言しか言わなかったそうであるが、両親は「離島(徳之島)出身の朴訥なもの言いが、私ら高知の田舎者には合うのではないか」と評していた[5]。新人をいじめるのは古参の幕下と相場が決まっていたため相撲部のマネージャーに所属幕下力士の数を調べさせ、結果当時の高砂部屋には幕下力士2人しかいないと知って「これなら大丈夫だ」と決意した[6]。当時すでに高齢であった高見山大五郎や富士櫻等関取に古参が多かったのですぐに自分が部屋頭になれると思いきや、2人が30代後半まで関取として土俵に上がり続けたため大変だったと話していたという[7]。同時に、当時珍しかった大卒力士をその2人が周囲のやっかみなどから守ってくれたと感謝している[5]。また、『多国籍企業について』という卒業論文を書いた長岡としては、外国人力士のいる高砂部屋は自分に合っていると判断することができたようである[6]。 Please Subscribe: https://www.youtube.com/channel/UCWoRsVKtLmrKc_hjyKzkXGQ?sub_confirmation=1 阿炎は今場所で二場所目の出場停止というところだけど、 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには. #スポーツ, #大相撲, https://sports.foredooming.com/wp/wp-content/uploads/2020/11/unnamed-file-128.jpg, https://sports.foredooming.com/wp/wp-content/uploads/2020/11/unnamed-file-128-225x150.jpg, Please Visit: https://www.facebook.com/Scathc/ 身に覚えが無いのでその時は詐欺メールという考えがなく、そのURLを開いてしまいました。 もちろん素手同士の殴り合いです。このように見るからにヤバそうな4人で同じ人数ならぼろ負けでしょうけど、現役の横綱、大関の5人なら何とか勝てるでしょうか?. 詐欺メールが届きました。SMSで楽天市場から『購入ありがとうございます。発送状況はこちらにてご確認下さい』 と届きその後にURLが貼られていました。 師匠である6代高砂(小結・富士錦)の停年が近づくと、当初後継者とみられていた高砂部屋付きの錦戸親方(関脇・水戸泉)が、諸事情により継げなくなってしまったため、2002年(平成14年)2月5日付で6代高砂と年寄名跡の交換を行い、7代高砂を襲名するとともに、若松部屋の力士全員が高砂部屋に移籍 … 変な質問でごめんなさい。2年前に結婚した夫婦です。それまで旦那は「専門学校卒だよー」って言ってました。 イケメンなことから女性ファンも多い阿炎関。長い手から繰り出される突き・押しが魅力ですよね。そんな阿炎関の彼女や家族、似ている人、ヤンキーの噂... 大相撲力士の朝乃山関が2020年2月15日(土)に、地元富山市のファボーレでトークショーを行いました。ファボーレでのトークショーは2019年... 大相撲力士の正代関には似ている人がたくさんいるようです。テレビを見ていて誰かに似ているけれど思い出せないということもあると思います。そこでツ... 大相撲の土俵入りを彩る化粧まわしは見るものを楽しませてくれます。力士はみんな個性的なものを身につけていますよね。イケメンで人気の阿炎関もいろ... 朝乃山関の後援会について調べたところ、特典などいくつかわからないことがありました。そこで実際に後援会の事務局に電話して問い合わせてみました。... 角界で屈指の人気力士である御嶽海関ですが、なぜそれほど人気が高いのか疑問に思う人もいるでしょう。かけられる懸賞も多いですよね。稽古嫌いともよ... 大相撲力士の阿炎関にはグッズがたくさん出ています。国技館などでよく見るタオルを始めとして、Tシャツやストラップなど、似ている似ていないと思い... 朝乃山関の結婚はまだなのでしょうか。結婚の時期や相手に求める条件、新たに判明した好きなタイプ、現在の彼女についてご紹介します。... 朝乃山関を全力で応援する富山県民です。長い間大相撲から遠ざかっていましたが、朝乃山関の登場で再び大相撲を見始めました。他の力士たちも注目しています。. 旦那は私の顔を上の中と言います。だったら上の上がいたら私は捨て... ママ友との会話で旦那が工場勤務とか土方は嫌だよね〜って話題になりました。そのママ友には言っていないのですが旦那が土方仕事をしています。 というか、けがで番付が下がりまく... 大相撲11月場所で素晴らしく姿勢の良い女性が東の力士の通路で連日同じ場所で観戦していらっしゃいます。あまりにも姿勢が素晴らしく力士よりもその方を見入ってしまっています。 出場停止によりここまで番付が下がりまくるのもあまりにも、ですか。 すると高砂部屋の後継者は誰になるのか気になると思いますが、現在部屋付きの親方である若松親方が継ぐことになっています。, ひよの富士 邦子(@kuniko.sumo)がシェアした投稿 - 2020年 3月月24日午後5時57分PDT, 現在7代高砂浦五郎である親方は現役時代は朝潮の四股名で、通称「大ちゃん」として人気がありました。, しかし親方の再雇用制度というものがあるため、定年後も希望すれば、70歳まで日本相撲協会に残ることができるのです。, 正規雇用の70%の給料をもらえますが、部屋を持つことや役員になることはできません。, 大ちゃんは以前から和製横綱を育てたいと言っているため、朝乃山関が65歳の定年までに横綱にならなければ、再雇用を選ぶかもしれませんね。, Aoyagi Yuichi(@tilsonbrito20)がシェアした投稿 - 2017年 8月月26日午前1時06分PDT, 大学を卒業すると、大学の先輩である朝潮の若松部屋(現在の高砂部屋)に入門し、1992年3月場所で幕下付出で初土俵を踏みました。, 2000年5月場所で自己最高位の西前頭筆頭まで上げますが、2001年9月場所以降は十両と幕内を行ったり来たりし、2004年7月場所からは十両での相撲が続きました。, 2006年1月の断髪式では愛工大名電高の後輩に当たるイチローさんにはさみを入れてもらっています。, 平成18年1月、高校の先輩である朝乃若(若松親方)の断髪式で鋏を入れるイチロー選手。今までの人生で何回カメラのシャッターを押したかわからないけど、この時ほどシャッターを押す指が震えたことはなかった #イチロー #sumo pic.twitter.com/6CN0bMUuJt, — 教折山(春場所) (@Noriori_fighter) March 21, 2019, 現役時代の朝乃若は派手な色のまわしと豪快な塩まき、仕切り時のカエルのような低い姿勢が有名だったそうです。, 私は当時の朝乃若は見ていないので、どのようなものかは想像するしかありませんが、次のような写真がありました。, 足止めて全員にサインのサービス#朝乃若#若松親方#朝青龍の兄弟子なんだ#武田鉄矢モノマネ pic.twitter.com/Azuj8zqpNw, 引退後は年寄・若松を襲名し、高砂部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たっています。, 同大学の相撲部の伊東監督が師匠の後輩であり、若松親方の先輩にあたるため、高砂部屋とも付き合いが長く、高砂部屋は春場所前に近畿大学と合同稽古を行うのが恒例行事となっています。, 親方は力士にあだ名をつけるのが好きなようで、阿炎関は「人間風車」だそうです(笑)。回転の良い突っ張りが風車みたいなのでしょう。, 今後高砂部屋を継いで、優勝力士が出た時や大関や横綱昇進の伝達式の時に、おかみさんと一緒にテレビに映る日も来るかもしれませんね。, 朝乃山関は師匠の期待に少しでも近づけるように頑張ると言っているので、横綱になれるように一生懸命に稽古するでしょう。, 師匠は朝乃山関をしっかり叱ってくれる人ですし、自分がやられて嫌だったことは弟子にやらない方針の人なので、私は安心して任せられます(親目線)。. 別に学歴なんて気にしてませんでしたし、そこそこ大きい企業に勤めて給料にも不満がありませんでしたし、私も働いていますし「専門技術だけで大きい企業に勤めるなんて凄... 先日、息子が彼女にプロポーズして、相手両親に挨拶に行きました。彼女は一人娘で、彼女の父親から、氏名だけでも彼女の姓を名乗ってもらえないかと言われたと息子より相談の連絡がありました。まだしっかりと話はしていないので、息子の考えや彼女の考えもわかりませんが、いずれこのような相談があるだろうと私自身前... ゴートゥーイート 11月中に終了する可能性高いですか?キャンペーンに気付いてなくて最近予約し始めたので Please Subscribe: https://www.youtube.com/channel/UCWoRsVKtLmrKc_hjyKzkXGQ?sub_confirmation=1 それなら、今場所休場してもなお、来場所も休場できて... 2020年11月8日(日)のテレビ千鳥で看護師役の女優さんのお名前を教えて下さい。, 力士って喧嘩したら強いですか? 高砂親方(元大関・朝潮)が2020年12月定年を迎えますが高砂部屋はどの親方が継承すると思いますか。 大相撲 近々、元朝潮の高砂親方は定年ですが、次の高砂親方継承者は決まっているのでしょうか? Please Visit: https://www.facebook.com/Scathc/ 結婚したことを後悔しています。私と結婚した理由を旦那に聞いてみました。そしたら旦那が「顔がタイプだった。スタイルもドンピシャだった。あと性格も好み。」との事です。 1988年10月に5代高砂(元横綱・3代朝潮)が急逝したため、高砂部屋の部屋付き親方である14代尾上(元小結・富士錦)が6代高砂を襲名して高砂部屋を継承した。 6代高砂の定年退職を間近に控えた2002年2月に、高砂部屋から分家独立して若松部屋を継承していた11代若松(元大関・4代朝潮)が名跡変更して7代高砂を襲名し、高砂部屋と若松部屋が合併した。 なお、学生時代は相撲以外にも数学系を得意とし成績優秀であり教師を志していたというが、相撲部の活動を優先して教育実習への出席を泣く泣く諦めたという。高砂部屋の他にも時津風部屋、出羽海部屋からも勧誘を受けていたとのこと[6]。, 初土俵から5場所目で入幕[3]。入幕2場所目で大関・貴ノ花を破り[2][注釈 2]、初の敢闘賞を獲得。この場所で初土俵から初めての幕内2ケタ勝利までの最速タイ記録を果たした格好となった(年6場所制度下、所要6場所)[8][注釈 3][2]。最速タイ記録に当初は本名で取ることを希望していたが先代朝潮太郎だった師匠から高砂部屋では最高の四股名である「朝汐太郎」を受け、襲名する[3]。4代目[注釈 4]の朝汐誕生である。しかし早くもプロの壁にぶつかり、翌1979年3月場所、上位陣との連日の対戦で初日から8連敗を喫する大不振に陥り、やっと手にした白星は、9日目の大関・旭國休場による不戦勝だった。結局この場所は5勝10敗に終わり、それから数場所も負け越しの連続で幕内下位に低迷し、影が薄い存在と化していた[2]。この頃、相撲に自信をなくし廃業してたこ焼き屋でもやろうか、と考えていたところを兄弟子の富士櫻に叱咤されてもいる。, その後、徐々に幕内上位に返り咲き、1980年(昭和55年)3月場所11日目、横綱・北の湖との2度目の対戦で、朝汐は北の湖が出たところを豪快な引き落としで破り初金星を挙げ、この場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得[2]。これを皮切りに朝汐は上位陣から恐れられることになる。以後朝汐は輪島、三重ノ海、若乃花、千代の富士といった横綱陣との対戦では度々土をつけ、特に当時の実力第一人者である北の湖との対戦では、仕切りから横綱の計算を狂わせ、ファンはおろか当の上位力士でさえも驚くばかりの強さを発揮し、当時の幕内力士では唯一北の湖に通算13勝7敗(不戦勝1含む)と歴然とした差で勝ち越したことで話題を呼んだ。1981年5月場所8日目の北の湖戦でも全勝の北の湖に土をつける活躍を見せ、この時のNHK大相撲中継の視聴率は夏場所のものとしては2017年3月場所終了時点で最高となる38.2%であった(ビデオリサーチ調べ)[9]。同年11月場所は12勝3敗の好成績で千代の富士と優勝決定戦に出場し、敗れて惜しくも初優勝を逃した[2]。翌1982年1月場所は大関挑戦の場所であったが、6勝9敗と負け越し、失敗に終わった[2]。1982年5月場所は13勝2敗の好成績で再び千代の富士と優勝決定戦に出場し、敗れてまたしても優勝を逃した[2]。翌1982年7月場所は再度大関挑戦の場所であったが、8勝7敗に終わり、またしても失敗に終わった。このように素晴らしい成績を挙げながらも優勝・大関には手が届かず、3度あった優勝決定戦ではあと一歩のところで及ばず、勝敗の差が激しく連勝か連敗が目立ついわゆる「連(ツラ)相撲」も特徴であった。この頃は大関挑戦の場所を迎えては負け越し(あるいは最小の勝ち越し)て失敗、数場所後に大勝ちして再(々)度大関挑戦の繰り返しであった[2]。, 特筆すべきは1983年1月場所である。この場所の朝潮は破竹の勢いに乗り、北の湖を掬い投げでひっくり返し、若乃花を土俵下に突き飛ばして引退に追い込み、千代の富士も押し出して横綱を総なめにし、琴風以外の大関も倒す大活躍を見せつけた[2]。結果は琴風との優勝決定戦となり、惜しくも敗れた[注釈 5]が、大物同士がひしめき合ったこの場所で14勝1敗という優勝同然の成績を挙げた朝潮の活躍は、相撲内容も優勝した琴風以上のもので、横綱キラー朝潮の強さをまざまざと見せつけた場所であった。関脇以下の力士が横綱を3人倒すという快挙は当時では非常に稀で、歴史を辿っても過去に4人(初代若乃花:1953年1月場所、先代朝潮:1955年1月、富士櫻:1974年1月場所、栃赤城:1979年11月場所)しかいなかった。, 翌3月場所、東関脇の地位で再び大関獲りとなったが、3場所前の1982年11月場所が平幕(東前頭筆頭・9勝6敗)の地位だった為、先場所の同年1月と同様に終盤まで優勝争いに加わる好条件が求められた。同場所は7日目に出羽の花に敗れ1敗。その後終盤まで横綱千代の富士と優勝を争ったが、13日目千代の富士に敗れて2敗、14日目北天佑にも連敗し3敗に。そして千秋楽、「隆の里(当時大関)戦で敗れたら大関は見送り」との報道も流れる中、なんとか勝利して結果12勝3敗の成績を挙げ、ようやく遅咲きながら大関の座をついに射止めた[3][2]。都合6度の大関挑戦を経験し、高砂から思うように大関昇進を果たせないことを指して「朝潮という四股名をやったのは大失敗。黒潮にしておけばよかった」と嘆かれたこともあったが、その末に昇進を果たし、まさに朝潮は最も脂の乗った時期に差し掛かった[10]。, 大関在位3場所目の1983年9月場所は、7日目まで6勝1敗と好調だった。しかし8日目の横綱・隆の里戦で上手捻りで敗れた際、「右膝内側側副靱帯損傷」の大怪我を負い途中休場、翌11月場所は全休。通常ならば大関で2場所連続負け越しすれば関脇へ陥落となるが、同1983年5月場所から公傷制度が大関にも適用される(その後2003年11月場所限りで公傷制度は廃止)事が決まっており、朝潮の11月場所の全休は公傷が認められたため、運良く陥落は免れた。また大関の地位で公傷制度が適用されたのも、朝潮が第1号である。初の大関角番となった1984年(昭和59年)1月場所は、10勝5敗と勝ち越して角番を脱した。, 大関でも連相撲ぶりが目立っていたが、1984年頃より従来の突き押し主体から、左四つ右上手で寄る相撲に変わっていき取り口的にも安定するようになった。1985年(昭和60年)3月場所では、6日目から連勝を重ねて勢いに乗り、千秋楽で大関若嶋津との12勝2敗同士の相星決戦を制し、13勝2敗の成績で第二の故郷大阪でようやく悲願の幕内優勝を果たした[3]。その若嶋津戦では、当たって右上手を十分に引いた朝潮が、正面からグイグイ寄り進み、上手投げから186㎏の体重を預けるように寄り倒す会心の取り口で若嶋津を撃破。この1985年3月場所を最後に現役引退を表明した兄弟子の富士櫻への餞となった[11]。この時期には、相手に当たった衝撃で額から血を流すことがしばしば見受けられ、流血も顔を二分化するかのような凄まじいものであった。本人は「白星欲しさに」だというが後に「あんなことしても痛いだけなんですけどね」と苦笑しながらコメントしている[2]。その優勝した場所でも、流血して勝ちを取ったかのような勢いがあり、この頃の朝潮は横綱も正面から打ち負かすほどの、最強の強さを発揮していた。因みに、朝潮は最後の餞にと富士櫻を優勝パレードの旗手に指名している[11]。旗手は通常なら幕内力士が務めるが、引退時の富士櫻は十両であったため、十両力士が幕内優勝パレードの旗手を務めるのは異例であった。尚、朝潮の幕内優勝は後述の通り、この1985年3月場所が唯一である[2]。, しかし優勝場所以後、10勝以上を挙げたのはわずか2度で、14日目か千秋楽に勝ち越しを懸ける場所が多くなっていった。大関時代の後半の成績も8勝や9勝がほとんどで、「クンロク大関」と皮肉られた[2]。それでもライバルとして横綱では隆の里や千代の富士(但し千代の富士の関脇昇進後は差が開いた)、大関では琴風、若嶋津、北天佑などがいた。, また、上記のように、14日目を終え7勝7敗で迎えた場所の勝率が高いこともあり、やくみつるも昭和63年の「おちゃんこクラブ」のネタとして「横綱四態」の表題で、千代の富士を「実力横綱」大乃国を「番付横綱」鳳凰を「稽古場横綱」と描いたオチに朝潮を「千秋楽7勝7敗横綱」と皮肉と揶揄を込めて描いているが、引退の前場所、カド番として最後に勝ち越した場所は前半、6勝1敗と好調ながら中盤以降連敗し、14日目に勝ち越しを決めたが千秋楽に、敗れ8勝7敗に終わっている。, 稽古不足の影響からか、大関晩年は押し相撲には必須の出足が鈍り、引きや叩きに対して脆く、前に落ちやすくなっていた。そしてそれが顕著に現れたのが、当時は突き押しのみが得意だった100kgを僅かに上回る程度の幕内最軽量級の若手力士寺尾との取り組みで、寺尾にがっぷり四つに組まれ電車道の横綱相撲を取られる失態を犯した。これはある意味朝潮の致命的な弱点で、受けに回るとあっけなく寄り切られるという巨漢力士に似合わぬものであった。, 元号が昭和から平成へ変わったわずか2場所目の、1989年(平成元年)3月場所は大関角番では無かったものの、初日から4連敗を喫し体力の限界を理由に、4日目の寺尾戦を最後に現役引退を表明。なお当初、朝潮自身は「5日目の孝乃富士戦を現役最後の一番にしたい」と申し出たものの、相撲協会からは「死に体で土俵に上がる事は許されない」と認められず、5日目の孝乃富士戦は結局不戦敗となった。また大関在位数36場所は、当時貴ノ花(初代)の50場所に次ぐ史上2位だった(現在史上8位)。, 成績は大関止まりであったが、当時の横綱大関陣の優勝、番付昇進は朝潮の活躍が大きく作用している点も見逃せず、対戦力士にとって優勝や昇進においてベンチマーク的存在となっていた。北の湖は前述の通り、朝潮に再三敗れたために、連勝を何度も止められている上、千代の富士にも幾度も優勝を譲っている。1981年(昭和56年)1月場所では関脇・千代の富士は全勝で千秋楽を迎えた。北の湖は朝汐に負けて13勝1敗、千秋楽の北の湖対千代の富士は北の湖が勝ったが決定戦で千代の富士が本割のお礼とばかりに横綱を這わせ初優勝、場所後大関に昇進した。同年7月場所で横綱昇進を決めたのも、全勝の北の湖が朝汐に突き倒されて、千秋楽に相星決戦となった伏線があり、これもまさしく朝潮の暗躍の結果である。, 因みに、本場所で支度部屋での朝潮は面白いキャラクターそのもので、その日の勝敗についてよくマスコミと冗談も交えて談笑して雰囲気を盛り上げたものであった。のちに相撲協会の広報部長に就いたのも、持ち前の話術をうまく生かしていたものと言えた。「高砂部屋の芸能部長」を自認し、CMにも出演、また1984年にはラジオシティレコードから「ほたる川」で歌手デビューするなどの活動もあった。現役時代は稽古嫌いなどと一部からは指摘されていたが、実際には富士櫻や高見山に半殺しに近い猛稽古を付けられており、大関昇進後も5代高砂から稽古中に当たり前のように竹刀で叩かれていた[5]ところを見た後援者が「朝潮はもう大関なんだから竹刀で叩くのをやめろよ」と意見したこともある。, また、いしいひさいちの4コマ漫画でも主人公となり、『ワイはアサシオや』という単行本になったほど。彼のキャラクターがいかに魅力的だったかがわかる。ちなみに彼自身この漫画のファンで、いつも読んでは爆笑していたという。また木村えいじの漫画『達磨』の、達磨親方役も本人の公認済。器の大きさを表すエピソードである。, 現役引退後の暫くは、年寄・山響を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた。しかし、10代若松親方(関脇・房錦)が病気で廃業したことに伴い、1990年(平成2年)3月に11代若松を襲名して若松部屋を継承した[3]。山響親方、若松親方時代には、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!