Gross Domestic Product (A) (Q)>Options, U.S. Bureau of Labor Statistics>Publications>Compensation from before World War I through the Great Depression, U.S. Bureau of Labor Statistics>cpsa2011>Employment status of the civilian noninstitutional population 1941 to date, White House>Office of Management and Budget>Historical Tables>Fiscal Year 2014>50 - 80Page>Section3 Federal Government Outlay by Function, NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走」2011年3月6日放映。, 連載「病理医があかす、知っておきたい“医療のウラ側”」第5回.『ルーズベルト米大統領を死に至らしめ、米ソ冷戦構造をつくった「迷信」とは?』, http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous2.php#M. 自身と同じクォーターで弟の羽田秀吉・妹の世良真純がいる。 Department of State, Peace and War: United States Foreign Policy, 1931-1941. Garland Publishing.1988,p206.西川 秀和 前掲リンク, 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争9「日本降伏」学研パブリッシング、2010年,41頁, 前田徹、佐々木類、スコット・スチュアート「ルーズベルト秘録(上)」産經新聞社、2000年,30頁, 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争9「日本降伏」学研パブリッシング、2010年,43頁, http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9A06E7DC1231EF33A25755C1A9609C946395D6CF, U.S. Bureau of economic analysis>Interactive Data>National Economic Data>GDP & Personal Income>Bigin Using the Data>SECTION 1 - DOMESTIC PRODUCT AND INCOME>Table 1.1.6. 母方の親族として叔母の宮野エレーナ、叔父の宮野厚司、従姉妹の宮野明美・宮野志保(灰原哀)を持つ。 ルーズベルト政権に疑惑が生じた背景には、その前年の1942年に米英軍が実施した親ドイツ姿勢ヴィシー・フランス支配下の北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)において、ナチス・ドイツのフランス国内でのユダヤ人迫害政策に加担していた、ヴィシー・フランス軍司令官フランソワ・ダルランとルーズベルト政府が秘密裏に休戦交渉していたことが露見して、アメリカのマスコミから「ルーズベルトはファシズム勢力と妥協した」と激しく非難されていた経緯があった[60]。, 同年11月にはエジプトのカイロで行われたカイロ会談において、中国の蔣介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。その後チャーチル首相とともにイランのテヘランに移動してソ連のヨシフ・スターリン書記長と会談。, 1944年10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した[65]。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求[66]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[67]。, 翌1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が開かれ、大戦後の国際秩序や発足が議論されていた国際連合についての協議が行われた。また、日本の領土分割などについても話され、ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[68](ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定))。, この会期中2月9日に開かれた英米軍事会議においてルーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」としてドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件に何らか緩和するように提言された。それに対しルーズベルトは「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した[69]。, そしてヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。 Da Capo Press. 黒の組織を追って日本に来日。来日後はジェイムズと合流し、しばらく米花町周辺に潜伏して調査を行っていた。「季節外れのハロウィンパーティー」では、ベルモットを確保しようとして逆に追い詰められたジョディを救出する形でベイエリアに現れ、カルバドスの動きを封じて彼の武器をすべて取り上げた後、ベルモットをショットガンで銃撃して負傷させるが、眠らされていたコナンを人質に取られて逃亡された直後、カルバドスに自決されてしまったため、手がかりは掴めずじまいとなった。 (6ページ目)『赤い博物館』(大山誠一郎 著) 本書は二〇一五年に文藝春秋からハードカバーで出た『赤い博物館』の文庫化となります。そこで、今、この解説を読んでいるあなたに、二つの質問をしましょう。 〔q1〕あなたは… ,Documentary History of the Franklin D. Roosevelt Presidency, v.7. Freidel, Frank. FBI捜査官の1人にして実質的エース格であり、FBIの切り札的存在。 32歳。左利き。截拳道の達人。「50:50(フィフティ・フィフティ)」を口癖としている。 Hull, Cordell,The Memoirs of Cordell Hull, v.1, 1941,The Macmillan Company. (ed.) 一人称は「俺」もしくは「私」。日本語は両親から教わったため堪能。 1904年にハーバード大学、1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。, 1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年の聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には、大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。6人の子供(4男2女)(注で一人ずつ説明)をもうけ、4番目の息子エリオットはのちに作家となった[10]。, 1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、彼は民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[13]。, 1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命。ジョセファス・ダニエルズ海軍長官の下で同職を務め[14]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[15]。, ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスとフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダルに関連した報道で海軍次官を辞職し[16]、副大統領候補として大統領選に出馬した。, 1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事のジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党のウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[17]。, 1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派との対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した[18]。1928年大統領選でスミスは大統領候補に指名され、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。スミスは自らの地元でも共和党のフーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、ルーズベルトは知事に当選、改革派知事としてルーズベルトは多くの新しい社会計画を行った[19][20]。, こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミスは何名かの有力者によって支持されたが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストやアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者であるジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーとの個人的な関係を持ち、その支援を自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがその支持をルーズベルトに行うとし、ルーズベルトはガーナーを副大統領候補に指名した。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」[21])の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中でニューディール(新規まき直しの意味)の用語を使用[22]。選挙戦では、フーバー大統領の財政政策を無駄使いの権化と徹底的に批判し、連邦政府の運営コスト削減の仕事を自分に任せてほしいと、緊縮財政を主張して政権を奪取した[23]。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになった[24]。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。, 世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共工事局 (Public Works Administration, PWA)、公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA)、社会保障局 (Social Security Administration)、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン的な政策であった。ほか団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策を行った。ルーズベルトが就任した1933年以降、景気は回復過程に入り、実質GDPが1929年を上回った1936年[25] の大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で再選を果たした。しかし、1937年の金融・財政の引き締めによる景気後退[26] もあり、結局任期の1期目と2期目である1933年から1940年の期間には名目GDP[27] や失業率[28][29] は1929年の水準までは回復しなかった。, その後1941年12月の第二次世界大戦への参戦による史上最大の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大[30] によってアメリカ経済は完全に回復し、失業者も激減した。近年では第二次世界大戦が無くても成功したのではないかという意見と、最初から大戦の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)がある。アメリカ合衆国連邦政府が公開している経済統計によると、アメリカ合衆国の実質GDPが1929年を上回った年度は1936年[25]、名目GDPが1929年を上回った年度は1941年[27]、失業率が1929年を下回った年度は1943年である[28][29]。, 前政権に増しての財政緩和政策、大統領令[31]によって市民に金貨、金塊の保有を禁止しての管理通貨制度の確立は、ケインジアンの立場からは有効な政策であったとされている。, 当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。, 1910年代から1930年代の戦間期のアメリカ海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、中米・カリブ海諸国に派遣されていたが(バナナ戦争)、1927年にニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦し、1933年に大統領に就任したルーズベルトは、ニカラグアと他の中米諸国から海兵隊を撤退させ、軍事占領を解く代わりに、キューバにはバチスタ政権、ニカラグアにはソモサ政権などのアメリカ合衆国の傀儡政権を樹立して間接的に支配する政策に転換し、ドミニカ共和国のトルヒーヨ政権のようにすでに樹立されていた傀儡政権に対する支配を継続した。ルーズベルトを支持する人はその政策を軍事占領を解いたことを論拠にして、傀儡政権による間接支配政策は論拠にせずに善隣外交と表現している。1933年12月、海軍長官命で艦隊海兵軍が創設された[32]。これは、海兵隊に長期遠征から敵海軍基地の奪取という任務の変化をもたらした[33][34]。, 就任後から1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せて日本と中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を取っていた[35]。, 1939年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。アメリカ政府は、イギリス寄りだが武器援助以外には基本的に介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたい、と考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。, また、名目上でもそうしなければならなかった理由として、ルーズベルトは大統領就任前の選挙中から「戦争はしない」という公約を掲げており、対日開戦はその意味でアメリカ国民に対する公約違反だとする批判も存在する。, 戦時下のヨーロッパでナチ党のアドルフ・ヒトラー率いるドイツ国防軍に、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、日華事変で日本と戦闘状態にあった中華民国の蔣介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた[36]。, 当時、アメリカ政府はイギリスや中華民国に対し多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込んだイギリスが負けることは避けたかった。ルーズベルト自身も選挙では戦争に介入をしない、と宣言して当選しており、参戦をしたくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし、戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。, 1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューディール阻止の為に共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており[37]、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる[38]。, 1937年8月30日、中華民国は国際連盟に対して、日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると主張し、措置を取るよう提訴した。9月6日にはルーズベルトは「世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」とヘンリー・モーゲンソー財務長官とハル国務長官に語り[37]、1937年(昭和12年)10月5日、世界で行われつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞらえて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)をシカゴで行った[37]。, 「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[39][40], 演説は直接には特定の国家を名指しすることはなかったものの、一般には従来の棍棒外交をあらためて否定し、ドイツやイタリア、日本などの国政実行を非難するルーズベルトの政策理念を表明する演説と考えられている。演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた[41]。なおハルの証言では、アメリカ国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた[42]。, 翌1938年10月6日には国務省声明を発表し、中華民国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指した[43]。ただし、その国際連盟にはアメリカ合衆国は加盟していなかった。, 隔離演説はニューヨーク・タイムズやコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載し、またシカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ[44]、またハル国務長官もこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した[37]。さらにクリスチャン・センチュリー紙は「もしアメリカが中国のために参戦すれば、その結果はひとりソビエトの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説はアメリカ国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトはアメリカ国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。アメリカ労働総同盟は「アメリカの労働者はヨーロッパ、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。アメリカを参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。, 日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬―率直にわが眞意吐露‘戦争’も已むを得ず」「紛争國“隔離”を提唱―米大統領演説」と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼―平和確保に協力せん」と題した記事においてこの演説が日本を指すものとして報道した[45]。また松方幸次郎は日本駐在のユージン・ドゥーマン参事官に対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた[46]。, 駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフ[47] は、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人(アフリカ系)問題から大衆の気を逸らせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた[48]。