日本が誇る天才作曲家、滝廉太郎。 音楽の教科書には必ずといって良いほど登場します。 一方でどんな人物だったか、何が凄いかまで語られることは少ないですね。 今回は、滝廉太郎の人柄と生い立ちなど … 「花」(滝廉太郎)全体パート(All Part)ハモり練習用 カバー/Japanese traditional song “Hana” Covered by Singer micah - Duration: 2:20. micah Singer 100,441 views 2:20 To see this page as it is meant to appear, please enable your Javascript! 児 童 6年生 19名 指導者 千葉 真紀子 1 題材名 詩と音楽を味わおう 2 教材名 滝 廉太郎の歌曲(花/箱根八里) 3 題材について (1)題材の目標 歌詞と旋律が一体となって生み出す曲想を味わいながら聴いたり、思いや意図をもって歌ったり する。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 滝は若干23歳でなくなっており、人間的な魅力よりも音楽性や才能が語られることが多いです。, ただ、経歴を掘り起こしていくと、人柄の部分では探求熱心で勤勉な人だったのではないでしょうか。, 滝は1900年10月7日、東京市麹町区(現:千代田区)の聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で洗礼を受け、クリスチャンとなっています。, 理由は、滝の近くに教会があっただけでなく、音楽学校時代から研究科までの同級生・高木チカの影響があったといわれています。, 今より明らかに情報が少ない明治時代の日本で、西洋音楽の本質を知るためにはキリスト教に関わる必要がありました。, 滝が卒業した東京音楽学校(現:東京藝術大学)のクラスでは30名中20名がキリスト教徒だったともいわれています。, 滝自身も、半年後にドイツ留学を控えたこともあり、欧州での生活を考量して決意した経緯もあったとされています。, つまり、滝は西洋音楽を心酔しており、さらに深く理解をするためにキリスト教に導かれた理解して間違いありません。, 滝はドイツへ留学した過去もあってか、ラファエル・フォン・ケーベルに私淑し、影響を大きく受けています。, ラファエル・フォン・ケーベルは非常に日本文学を深く感じ、理解をしようと熟考したとされています。, 観察眼には日本を見下す西洋的な傲慢さはなく、日本への愛情と理解に溢れていたそうです。, そんな人物の音楽性を滝が模倣しているということは、すなわち、滝自身も同じくらい西洋音楽への理解を深めようと探究心を持って取り組んだということでしょう。, 滝は1901年4月にドイツ・ベルリンへ向かいますが、これは当時では非常に珍しいことです。, 日本の音楽家では史上2人目のヨーロッパ留学であり、類い稀な才能に加え、前例が少ないことに挑む気概を持ち合わせていました。, 滝は1879年8月24日、父・吉弘と、母・正子の間の長男として東京市芝区(現:東京都港区西新橋)に生まれました。, 父・吉弘は大蔵省や内務省で働き、大久保利通や伊藤博文の側近として働いていたようです。, 滝の姉2人はともにアコーディオンとヴァイオリンを習っており、滝も影響を受けてヴァイオリンを弾いていました。, 7歳で小学校入学後、家族で富山へ転勤をしますが、小学校でも毎月音楽会が開かれました。, 1890年、15歳の時に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽部)に入学し、ピアノと和声学で才能を発揮します。, 滝は1898年に卒業をしていますが、それまでに「日本男児」「春の海」など4曲を作曲しています。, 滝は全34曲を創り上げていますが、1900年から1901年にかけて一気に創作をしており、この2年で20曲以上を創作しています。, 滝は1901年にヨーロッパ(ドイツ)へ留学に向かい、音楽の名門大学であるライプツィヒ音楽院で学び始めるのです。, 最後に病床で作曲した「憾(うらみ)」はピアノ曲として高い技術を持って創作され、病により倒れた滝の無念さを伺い知ることができます。, しかし、先に西洋の曲が導入され、後から日本語歌詞が付けられていたため、完成後はぎこちなさは否めませんでした。, 日本政府は国策により西洋化を進める中で、上記の理由から日本と西洋の音楽を融合できる人物を探しており、才能ある滝の実力に脚光が浴びました。, 滝の音楽性は、日本語歌詞を西洋音楽のメロディに合わせることに成功し、見事に日本と西洋の音楽を融合させています。, 滝が作曲した曲は現代でも多くの人に親しまれており、日本では鉄道の発車メロディーにも使用されています。, 特に「荒城の月」はベルギーのある修道院では約30年前より聖歌として使われ、ドイツを代表するロックバンド・スコーピオンズがライブで歌唱したこともあります。, 日本語の歌詞に違和感のない西洋のメロディを創り上げており、日本の音楽に西洋文化を取り入れることに成功したのです。, 当時の日本にとっては、西洋の歌というのは馴染みがなく、日本語の歌詞を入れても音楽性に乏しい作品ばかりでした。, しかし、滝がドイツ音楽を至上とする奏法を貫いたことにより、誰も成し遂げていない、日本と西洋を良い部分を掛け合わせた音楽が完成しました。, 現代でも「雪やこんこん」「お正月」「荒城の月」などの曲は聴くことが多く、音楽の授業でも取り扱いがあると思いますが、それほど当時の日本では大きな出来事だったのです。. ���
b�/��7k�% b}B ��čyL�,�@#����� l/
滝廉太郎(たき れんたろう、1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家、作曲家。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。, 1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。瀧家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々務めた上級武士の家柄である[1]。, 父・吉弘は廃藩置県後上京、大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らの下で内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることになった。, 1886年(明治19年)5月、神奈川県師範学校附属小学校に入学。同年9月、富山県尋常師範学校附属小学校(現:富山大学人間発達科学部附属小学校)に転校。1888年(明治21年)5月、東京の麹町尋常小学校(現:千代田区立麹町小学校)に転校し、同校を1890年(明治23年)に卒業[2]。卒業時にはピアノを演奏したと伝えられるが、その曲目は不明。その後、故郷の大分県尋常師範学校附属小学校高等科(現:大分大学教育学部附属小学校)に入学したが、父の転勤で同県内直入郡の高等小学校(現:竹田市立竹田小学校)へ転校した。1894年(明治27年)4月に同校を卒業し再度上京。同年9月東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学し、ピアノを橘糸重、遠山甲子に学ぶ[3]。1898年(明治31年)に本科を卒業し[4]、研究科に進む。こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。1900年10月7日には東京市麹町区(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で元田作之進より洗礼を受けてクリスチャンになり、10月28日にジョン・マキムから堅信礼を受けた[5][6][7]。, 明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。また、人気の高い曲の一つである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「鳩」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年(明治33年)に編纂された幼稚園唱歌に収められた。また「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったことも判明した。またピアニストとしては特にラファエル・フォン・ケーベルに師事し、その影響を大きく受けてドイツ音楽を至上とする奏法を貫いていた。, 1901年(明治34年)4月6日、日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着。同地で日本語教師を務めていた文学者の巖谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。さらにライプツィヒに向かい、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン、当時の学院長:カール・ライネッケ)に入学する。文部省外国留学生として入学、ロベルト・タイヒミュラー(英語版)にピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲や音楽理論を学ぶ[8][9]が、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。1902年(明治35年)7月10日にドイツを発ち、ロンドンを経由して10月17日に横浜に着く[10][11]。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。満23歳没(享年25)。結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。作曲数が多かったと考える者もいるようだが、現在はっきりとその存在が確認されている作曲作品は34曲と決して多くはない(編曲作品もいくらか現存)。, 瀧家の墓所は日出町の龍泉寺である[12]が、廉太郎は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。戒名は直心正廉居士。, 2011年(平成23年)3月、廉太郎の墓は、親族らの意向により万寿寺から先祖の眠る龍泉寺へと移設された[13]。龍泉寺には、瀧がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残されている。, 2019年(平成31年)2月、廉太郎が書いたとされる手紙や譜面、写真など200点以上もの史料が竹田市に寄贈された[14][15]。, 歌曲に有名な作品が多い滝だが、1900年には日本人作曲家による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲している。肺結核が悪化して、死期が近いことを悟った時、死の4か月前に作曲したピアノ曲『憾(うらみ)』が最後の作品として残された。, 作品の一部は鉄道に関する音楽にも採用されている。「荒城の月」は九州旅客鉄道の豊後竹田駅の列車到着時に利用客に向けて流され、「箱根八里」は、箱根登山鉄道等の発車メロディに使用されている。また、「花」は、東京メトロ銀座線浅草駅にてご当地メロディーとして使用されている。かつては東北新幹線・上越新幹線の上野駅到着・発車時の車内チャイム(通称「ふるさとチャイム」)として使われていたが、東京駅乗り入れ後は使用されていない。, 瀧井敬子『夏目漱石とクラシック音楽』第8章第1節「漱石が上野で聴いたハイカラの音楽会」(毎日新聞出版), 大分合同新聞2011年5月23日朝刊「滝廉太郎の新曲発見 重厚で明るい『卒業式歌』」, 大分合同新聞2010年12月18日夕刊「滝廉太郎『水のゆくへ』の作詞者 橘糸重と判明」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=瀧廉太郎&oldid=79851244.