モブ・ノリオ
切れ目なく流れるような文体で、私は谷崎潤一郎の春琴抄を連想したが、後になって中上が谷崎の文体に敬意をもっていたのを知った。このように、おそらく源氏物語まで遡れるであろう日本文学の作家から作家に引き継がれてきた“遺産”が、中上以後の最近の作家からはあまり見出せないのは、寂しい。 また、中上は、一種の霊的な事象についても、面白かったり恐ろしかったりする逸話を書き残し、語り残してくれている。たとえば、《真の人間主義》を掲げた熊野大学の開設準備段階で開かれた、中上本人による連続講義を収めた講演録『中上健次と読む「いのちとかたち」』では、近代的な教育機関では普通は口にするのがためらわれる、目に見えない神やら霊やらがはたらいているのではと結論づけずにはいられぬ体験が、臆することなく語られている。その際にも、中上らしいのは、批評性と不可分な彼独自の《ヴァイブレイション》に対する感受性をセンサーにして、不可解な現象の切迫性(リアリティ)を言葉にあらわそうとしているところだ。とりわけ十五章の「非在の熊野」を読むと、熊野の神さんがあまりにも厳めしく、言葉を失うしかない。, こんな講座が九〇年の新宮で開かれていたとも知らずに、九四年、私が二十三歳の時、中上の三回忌に重なる日程で開催された夏期セミナーに参加した。それは、生まれて初めての熊野大学、そしてまた初めての新宮、熊野への小さな、だが決定的な旅となった。 (2)村田沙耶香 http://pdmagazine.jp/people/aoyama-shinji/
しかし、1911年に国家的陰謀のかどで、この地から6名が捕えられ犠牲になりました。しかし、その後も彼らの精神は受け継がれ、佐藤春夫、芥川賞作家の中上健次などの文化人を輩出。今もなお崇高な志はこの地に受け継がれています。 所要約2時間。 同窓生の田村さと子(ラテンアメリカ文学者)らを招き、新宮市民会館で発会式を行った「隈ノ会」を含めたこれら三つの文化組織で、中上は熊野とは何かという問いを終始喚起し続けた。, 日本文学史にその名を輝かせ続ける「太宰治」。そのエピソードと名言をクイズにしてみました!あなたは「真の太宰ファン」を名乗れますか……?, 随筆家・翻訳家の須賀敦子は昨年没後20周年を迎え、最近では『須賀敦子の本棚』(河出書房新社)などの刊行や、『池澤夏樹編日本文学全集』(河出書房新社)への収録、多くの関連書の出版などがされています。長年住んだイタリアの地で出会った人々や自らの軌跡を、晩年になって静謐な筆致で綴った文章は、沢山の人々の人気を集めました。今回はそんな須賀敦子の文章を頼りに、彼女の人生を辿っていきます。, 実在する文豪をモチーフとしたキャラクターが登場するゲーム、「文豪とアルケミスト」。ゲームで描かれているキャラクター同士の交流を、史実をもとに解説します。, 『どくとるマンボウ』シリーズのようなエッセイを代表作に持ち芥川賞や大佛次郎賞を受賞するほどの優れた作家、北杜夫の作品をご紹介します。, 太宰治、石川啄木、ヘミングウェイ、中原中也……あの大作家たちが、もしもTwitter廃人だったら。そんな妄想を爆発させてみました。, 大学卒業直後に発表した「キッチン」がベストセラーとなり、鮮烈なデビューを飾った人気作家の吉本ばなな。女性らしい、美しく詩的な文章と、その独特な世界観で、これまで多くの人気作品が発表されています。作品には海外のファンも多く、世界各国で翻訳版が出版されています。, 太宰治とアブサン、坂口安吾と日本酒……日本文学とお酒の切っても切れない関係をご紹介!, その作品の多くが、没後に有名になったという、宮澤賢治。その短くも濃密な生涯を特集します。豊富な写真とともに、自筆の『雨ニモマケズ』原稿も掲載。必見です。, 言わずとしれた日本文学の巨人、夏目漱石。彼が残した様々な「日本初」を題材に、その後世への影響力を探ります。, 「戦争の生き証人」として昭和から平成にかけての時代に懐疑的な視線を向け続けた野坂昭如。その原体験となる「うしろめたさ」とは、一体なんだったのでしょうか。, 骨太のミステリーで知られる松本清張。「昭和の顔」とも言える彼の作品を昭和生まれと平成生まれのファン3人が語りつくします。, なぜ、私たちには文学作品が必要なのでしょうか?アメリカ人の日本文学研究者であるモリソン先生が「おすすめの日本小説」について語る内容から見えてくるのは、意外な答えでした。, 今をときめく人気&実力作家となった森見登美彦。その代表作の中から、肩の力を抜いて読みたい”脱力系名言”をご紹介します!, 『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめとする作品を手がけ、日本に「妖怪文化」を根付かせた水木しげる。多くの人に驚きを与えた独創的で型破りな生き方について、自伝をもとに紹介します。, 腐女子×短歌=BL短歌!Twitterを中心に花開いた「萌え」の新ジャンル、BL短歌について、短歌誌『共有結晶』同人でもある文学研究者・岩川ありささんにお話を伺いました。, 故人へ送る言葉、“弔辞”。弔辞を見れば、故人の人となりや、その人と送り主との関係が浮かび上がってきます。今回は、作家たちが友人や同志に送った名弔辞を4つご紹介。美しい「別れの言葉」を味わってください。, 2019年1月1日に、生誕100周年を迎えたJ.D.サリンジャー。『ライ麦畑でつかまえて』が世界中でベストセラーとなるも、隠遁生活を経て、表舞台から姿を消したサリンジャーとはどのような人物だったのでしょうか。2019年1月18日公開の映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』特別試写会の模様も合わせてご紹介します。, 戦後初の芥川賞作家で、わずか46歳の若さで夭折した、伝説の作家、中上健次。その知らざる素顔を作家・島田雅彦、長女で作家・中上紀、中上健次電子全集の監修者で文藝評論家・高澤秀次、中上健次の素顔を良く知っている3名が、生誕70年となった今年、6月28日のジュンク堂渋谷店のイベントでその秘話の数々を明らかにします。, 遠藤周作のキリスト教小説の傑作「沈黙」がハリウッドで映画化され、2016年秋に公開されることとなりました。今回はハリウッド映画化された「沈黙」に纏わる話や、その他の遠藤周作のオススメ作品をご紹介します。, Facebookページへいいね、Twitterをフォローすることで、P+D MAGAZINEの最新記事をSNSでお届けします。, △
芥川賞作家モブ・ノリオを文学に導いた「熊野大学」と中上健次 | P+D MAGAZINE TOPへ, https://pdmagazine.jp/people/nakagami-ono/, http://pdmagazine.jp/people/hoshino-nakagami/, http://pdmagazine.jp/people/nakagami-shimada/, http://pdmagazine.jp/people/aoyama-shinji/, http://pdmagazine.jp/people/murata-sayaka/, http://pdmagazine.jp/people/nakagami-sato/. 彼は作家一本で活動する前はサラリーマンと掛け持ちで、原稿用紙ではなく、一般事務で使う集計用紙に作品を書き込んでいた。集計用紙は横書きでマス目はなく、私が見た原稿には,中上の手書き文字がびっしり隙間なく行を埋めていた。集計用紙を使うことや、余白無く書き込むことには、まだ作家として生計を立てていなかった中上にとって、紙を節約するという意図もあったという。 『介護入門』で第131回芥川賞を受賞したモブ・ノリオが、多大な影響を受けた小説家・中上健次。「熊野大学」の中上没後三回忌セミナーに参加したことから始まったそのきっかけを、モブ氏が熱く語ります。, 『介護入門』で第131回芥川賞を受賞したモブ・ノリオに強烈な影響を与えた小説家・中上健次。そのきっかけは、今も続く中上が新宮の地で開講した文学講座「熊野大学」の中上没後三回忌セミナーに参加したことから始まりました。, モブ氏の運命を決めることとなった、「熊野大学」での出来事、出会い、そして中上文学について、「中上文学の神髄を語る」(7)――「《熊野》で学ぶ」ことの意味を考えるの中で、モブ氏が独白します。, ▶関連記事はこちらから
http://pdmagazine.jp/people/nakagami-shimada/
それから、また随分と色々あって、気がつけば、私は今、中上健次の齢を既に何十日か越えて、これを書いている。 http://pdmagazine.jp/people/murata-sayaka/
(6)小野正嗣 筆者はかつて水内と共に新宮市における戦後 6) の同和対策事業の施行過程を概略している。そ こでは, 同和地区の郊外分散とその集積という 立地現象や, 芥川賞作家中上健次の生地である という新宮市に固有の解放運動の特徴を指摘し 初めての中上健次作品にもなる。 した夏期市民大学が、生前の中上健次の発意によって新宮市で開催されるようになった。 私は以前からこのような明治以後の新宮に関心を抱いていたが、この関心を特に掻き 立てたのが、今から10年余前に読んだ一編の小説である。その頃、私は名古屋に住ん 作品の大半は熊野が舞台。血と暴力とエロスが交錯する中上ワールドは「世界文学」として評価が高い。, 「校舎もなければ入学試験もない。卒業は死ぬとき」を合言葉に、「熊野とは何か、熊野の思想とは何か」を大命題とした熊野大学構想が動き始めたのは、昭和64 年(1989)1月のことだった。以降毎月「熊野大学準備講座」と銘打った集まりが、熊野速玉大社双鶴殿を主会場として開催され、その都度中上健次は、何処にいても、どんなに忙しくても新宮に戻ってきた。もちろんあらゆるスケジュールを割いての新宮行である。, その頃すでに、月に連載を4本以上、週の連載を2本以上、さらに新聞小説まで執筆していた。他にもインタビューなど細かな仕事も当然あり、また次の作品のための取材などもあったはずである。にもかかわらず、新宮行は殆ど途切れることなく、入院の前月まで続いた。ある意味で仕事よりもこの準備講座を大事にしていた。, 中上健次は、昭和21年(1946)8月2日に新宮市新宮6756番地に生まれた。複雑な家系に生まれた彼は、代表的ルポルタージュ『紀州木の国・根の国物語』に「実父はスズキと言い、母の私生児としてキノシタ姓に入り、高校の時からナカウエになった。18歳で東京に出て、私はナカガミと名のった」と書いている。, 新宮高校卒業後上京し、20歳の頃から同人誌『文芸首都』に小説・詩を発表しはじめた。昭和44年(1969)に『一番はじめの出来事』(『文藝』八月号)によって文壇デビュー、翌年には作家紀和鏡と結婚、羽田空港で荷役に従事する。昭和49年(1974)に『19歳の地図』、昭和50年に『浄徳寺ツアー』『鳩どもの家』、翌年には『岬』で第74回芥川賞を受賞した。, 後に熊野大学のメンバーに「芥川賞を俺が受賞して一番ビックリしたのは、羽田の頃の上司とちがうか。だって、俺のこと、字が書けんと思っていたみたいで、会社への書類も代筆してくれたぞ」と笑っていた。, 昭和52年(1977)には『枯木灘』で毎日出版文化賞、翌年には芸術選奨新人賞を受賞。その間、アメリカ長期滞在も体験、翌年頃から韓国、アメリカ大陸横断?ジャマイカ、ベトナムと、ほぼ毎年アジアを中心に世界を飛び回っていた。熊野大学の宴会でもよく「東京は消費するだけの街や。ここ熊野から目を向けるべきは、ニューヨークであり南アフリカであり、世界なんや」と熱っぽく語っていた。, 作品の多くは、新宮を中心とする紀州の「路地」を舞台に濃密で複雑な人間関係とともに「抑圧する者・される者」という視点を含めながら豊穣な物語が展開していく。とりわけ『枯木灘』は「日本近代文学史の全要素を凝縮したような形」(文芸批評家柄谷行人氏)と言われ、私小説の悲劇性と物語の悲劇性を融合させ、そのどちらをも超えた文学のありようを示した。, 昭和53年(1978)には「部落青年文化会」を主宰、後の「隈の會」(熊野大学の母体)につながっていく。平成2年(1990)6月に「準備講座」をはずし、熊野大学として正式に発足する。, その開講式のための「真の人間主義」で、前段に「近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信」による地球の破滅=世界的危機を憂い、その後段で「人間は裸で母の体内から生まれた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ。生まれたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。霊地熊野は真の人間を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光、熊野の水、熊野の風。岩に耳よせて声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る往古の物語を聞こう。そこに熊野大学が誕生する。」と書いた。, 今一度我々はこの言葉をかみしめつつ、熊野の風土や歴史を踏まえた上で、この地の未来に思いを馳せることが、彼の高い志や迸る情熱に少しでも近づく方途であると思う。作家はかって元気だった頃、東京から電車で帰新する際「尾鷲あたりから顔が緩んでくる」とも「ここにいるとなぜか筆がすすむ」とも言った新宮に、平成4年(1992)7月7日七夕の日、重病に冒された身体で帰ってきた。本人のたっての希望だった。乳飲み子があたかも温かい母の胸に誘われるように。そして8月12日、家族、そして限りない愛情で慈しみ育ててくれた母に看取られ、静かに息を引き取った。享年46歳。誕生日の10日後のことだった。.
戦後生まれ初の芥川賞作家であり、昭和という時代を疾走し、46歳の若さで夭折した作家・中上健次。2016年は中上健次の生誕70年にあたり、記念事業として「中上健次電子全集」が、4月15日より配信開 … (5)星野智幸
「路地」に住むオリュウノオバという産婆さんが眺め続ける 何でも、腐りかけが一等おいしいのね。, 1946年和歌山県生まれ。74年『十九歳の地図』でデビュー。76年『岬』で芥川賞、77年『枯木灘』で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞。他の作品に『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『日輪の翼』等。 (2009/12/28), 色気の塊みたいな男が、これでもかと出まくってくるオムニバス。 「部落青年文化会」は、「路地」の若者たちを組織、東京から石原慎太郎、瀬戸内寂聴(当時、晴美)、吉本隆明、唐十郎らを招いて連続公開講座を実施した。「開かれた豊かな文学」は、その間に行われた中上健次の講演記録である。 中上文学の神髄を語る 独特な世界観と救われない話が苦手で、断念。, 新宮市立図書館の中にある中上健次資料収集室で中上の自筆原稿を直接見たとき、彼の独特な文体の理由を垣間見た気がした。 (4)島田雅彦 ある血統の男達の、どうしようもない物語です。 中上健次という小説家のおかげで、私は、自分が大人になってから、被差別部落に生まれた友達と、被差別部落のことについて、《中上健次》を媒介にしながらしゃべることができるようになった。そのことを感謝している。, 1970 年、大和桜井生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。同大専攻科在籍中の1994年、新宮市にて熊野大学夏期セミナーを受講。その後、約1年間、主に東京でニセ学生(モグリの聴講生)として、島田雅彦、渡部直己、金井久美子、柄谷行人、絓秀実、古井由吉らの授業を受ける。著作に、『介護入門』(第98回文學界新人賞、第131回芥川賞受賞作)、『JOHNNY TOO BAD内田裕也』(ロックンローラー内田裕也との共著)、自主制作音源に『中之島に原発を(なぜつくらない)』がある。, モブ・ノリオ氏にとって、《熊野》、そして中上文学との出会いが、彼のその後に如何に大きな影響を与えたのか、彼の“語り“から強く伝わったのではないでしょうか。, 中上健次は、単に作家という仕事の枠を超えて、故郷新宮市を中心とした文化組織を3つ、オルガナイザーとして立ち上げてきました。うち「熊野大学」は、中上没後も、彼の遺志を継ぎ夏期セミナーという形式で、毎年開催されています。 Copyright © 2016- 新宮市観光協会 All Rights Reserved. 中上がオルガナイザーとして、「熊野」の地で遺した発言の数々が、中上健次電子全集12『オルガナイザー中上健次の軌跡』に収録されています。, 今も開催される「熊野大学」など中上が熊野で立ち上げた三つの文化組織。「熊野とは何か」という問いの全貌がここにある。, ここに収められたのは、全て作家が故郷・和歌山県新宮市で語り、行い、書き綴ったもの。自ら地元で立ち上げた文化組織は、1970年代末の「部落青年文化会」に始まり、「隈ノ會」、「熊野大学」と規模を拡大した。なかでも「熊野大学」は、1992年の作家の死後も現在に至るまで、合宿形式による「夏期特別セミナー」を開催している。この市民大学のモットーは、門もなく、試験もなく、卒業は死ぬ時。中上健次はその創始者にして最初の卒業者となった。『中上健次と読む「いのちとかたち」』は、熊野大学の発足当時から作家の死の直前まで、地元の市民たちを集めて速玉大社双鶴殿で行われた山本健吉『いのちとかたち-日本美の源を探る』の講読記録。