救いの条件 メシア預言 05/24 ヨハネによる福音書 6:22-40 「わたしが命のパンである」 嶋貫 佐地子 牧師, 05/17 マタイによる福音書 26:57-68 「神を裁けるか」 川崎 公平 牧師, 05/10 コリントの信徒への手紙一 3:18-23 「自らを欺かないで」 中村 慎太 牧師, 05/03 マタイによる福音書 26:47-56 「剣を取る者は剣で滅びる」 川崎 公平 牧師, 04/26 マタイによる福音書 26:36-46 「苦しみ悶える神の子」 川崎 公平 牧師, 04/12 マタイによる福音書 26:26-35 「いのちの待ち伏せ」 川崎 公平 牧師, 04/05 マタイによる福音書 26:14-30 「ああ、神の愛を裏切るのか」 川崎 公平 牧師, 03/29 ヨハネによる福音書 21:15-21 「あなたは、わたしに従いなさい」 上野 峻一 牧師, 03/22 コリントの信徒への手紙一 15:42-49 「最後の望み」 川崎 公平 牧師, 03/15 コリントの信徒への手紙一 9:16 「教会とは何か」 川崎 公平 牧師, 03/08 コリントの信徒への手紙一 3:10-17 「神さまの神殿はあなたがた」中村 慎太 牧師, 03/01 マルコによる福音書 13:37 「目を覚ましていなさい」 川崎 公平 牧師, 02/23 マタイによる福音書 26:1-13 「死に打ち勝つ愛の香り」 川崎 公平 牧師, 02/09 コリントの信徒への手紙一 3:1-9 「神さまからのために働く」中村 慎太 牧師, 02/09 ルカによる福音書2:41-52 「あたりまえっ子」 嶋貫 佐地子 教師, 02/02 マタイによる福音書 25:14-30 「誰のために生きるのか」 川崎 公平 牧師, 01/26 ヨハネによる福音書 6:1-15 「少しも無駄にならないように」 上野 峻一 牧師, 01/12 コリントの信徒への手紙一 2:6-16 「神さまからのサプライズ」 中村 慎太 牧師, 01/05 マタイによる福音書 24:36-51 「だいじょうぶ、私は必ず帰ってくるから 川崎 公平 牧師, このホームページに引用される聖書は、『聖書 新共同訳』であり、その著作権は以下に帰属します。, 11/15 テサロニケの信徒への手紙一 4:13-18 「死について知っておくべきこと」 川崎 公平 牧師, 11/1 テサロニケの信徒への手紙一 4:1-12 「誰を喜ばせるために生きるのか」 川崎 公平 牧師, 10/25 テサロニケの信徒への手紙一 3:6-13 「あなたが主に選ばれているなら」 川崎 公平 牧師, 10/18 テサロニケの信徒への手紙一 2:17-3:5 「人を引き離す力に負けるな」 川崎 公平 牧師, 10/11 コリントの信徒への手紙一 5:1-8 「パンと子羊」 中村 慎太 牧師, 10/04 テサロニケの信徒への手紙一 2:13-16 「神の言葉を聞く道」 川崎 公平 牧師, 09/20 テサロニケの信徒への手紙一 2:1-12 「神の招きの声」 川崎 公平 牧師, 09/13 コリントの信徒への手紙一 4:14-21 「主イエスに結ばれた生き方を」, 09/06 テサロニケの信徒への手紙一 2:1-12 「人を生かす愛」 川崎 公平 牧師, 08/23 テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10 「物言わぬ偶像からの解放」 川崎 公平 牧師, 08/16 テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10 「教会の存在意義」 川崎 公平 牧師, 08/09 コリントの信徒への手紙一 4:6:13 「すべては主からいただいたもの」 中村 慎太 牧師, 08/02 テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10 「響き渡る神の言葉」 川崎 公平 牧師, 07/26 マタイによる福音書 28:16-20 「復活の主に遣わされて生きる」 川崎 公平 牧師, 07/12 ヨハネによる福音書 6:41-59 「引き寄せられた人たち」 嶋貫 佐地子 牧師, 07/05 マタイによる福音書 27:57-66 「イエスの墓こそ永遠の望み」 川崎 公平 牧師, 06/28 マタイによる福音書 27:45-56 「もう絶望はない」 川崎 公平 牧師, 06/21 マタイによる福音書 27:27-44 「十字架につけられた神」 川崎 公平 牧師, 06/14 コリントの信徒への手紙一 4:1-5 「裁くのはイエスさま」 中村 慎太 牧師, 06/07 マタイによる福音書 27:11-26 「神に対する憎しみ」 川崎 公平 牧師, マタイによる福音書 26:69-27:10 「呪いに勝つ神の愛」 川崎 公平 牧師, ヨハネによる福音書 6:22-40 「わたしが命のパンである」 嶋貫 佐地子 牧師, マタイによる福音書 26:47-56 「剣を取る者は剣で滅びる」 川崎 公平 牧師, マタイによる福音書 26:14-30 「ああ、神の愛を裏切るのか」 川崎 公平 牧師, ヨハネによる福音書 21:15-21 「あなたは、わたしに従いなさい」 上野 峻一 牧師. 福音 カトリック そんなことになるとはつゆ知らず、サマリヤの女性はイエスの話すことばに受け答えしていきます。 しばらくこの二人の会話に耳を傾けてみましょう。まず、イエスの方から女に声をかけます。 「わたしに水を飲ませてください。 (第一テモテ2:15), ▼聖書は男尊女卑?そんなことはないのですが、女性の役割についての他のご質問はこちら。, いけにえ 宗教の違い 。パウロは、女性が男性にみことばを教えたり、霊的に指導したりすることを禁止しました。その理由は、たった一つ、男性が先に造られ、次に女性が助け手として造られたからです。男性も女性も、神が意図された通りに教会で奉仕をすることを期待されています。, (1)「紀元1世紀の女性たちは教育を受けていなかったので、牧師になることが禁じられた。この教えを現代の教会に適用すべきではない」。しかし、1テモテ2:11〜12は、教育には触れていません。もし教養が牧師になる資格であるなら、12使徒たちにはその資格がないということになります。, (2)「パウロは、エペソ教会だけに適用すべき教えを語っている。エペソにはアルテミス神殿があり、女性が権威を握るという文化的背景があった」。しかし、テモテへの手紙第一には、アルテミス神殿への言及は一切ありません。, (3)「パウロのこの教えは、夫と妻の関係に適用すべきもので、男性と女性一般に関する教えではない」。しかし、文脈上、この命令を夫婦関係に限定すべきだという理由が見当りません。, (4)「聖書には、プリスキラやフィベのように、リーダーシップを発揮した女性たちが何人かいる」。しかし、彼女たちが牧師であったという記録はありません。, 女性には、他の女性や子どもたちを教える責務があります。また、教会の中で、自分に与えられている聖霊の賜物を発揮することが期待されています。女性に与えられている奉仕の内容に焦点を合わせることによって、より有効な奉仕を展開することができます。教会は、女性たちの貢献がなければ建ち上がって行きません。, 「女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます」
終末時代 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。牧師は妻帯可。女性牧師を認めるかどうかは教派による。 創造論 契約 ユニバーサリズム(普遍主義) 一方、女性牧� 地獄 それは出会いを必要としている人物がそこにいたからです。しかし、人間の側から見ると、それは、たまたま、偶然のようにしか思えないのです。, 4節の「しかし」という接続詞は単なる「しかし」ではなく、人間の常識を越えた「しかし」でした。特別ここを通らなくてもよかったのです。普通ならば避けて通るべきルートでした。つまり本来ならば、当時のユダヤ人はサマリヤを避けて、ガリラヤの地方に行くのが常識でした。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人とは犬猿の仲だったからです。ですから、どうしてもそこを通る必要はありませんでした。しかし、神の必然はそんな常識を超えて働きます。しかも私たち人間側から見ると「きわめて日常的な出来事の中に」働かれるのです。, その証拠に、このヨハネの福音書4章に登場するサマリヤの女は、いつものように水を汲みに井戸にやって、そこでイエスと出会いました。女の側から見れば、偶然、そこに見知らぬ一人の男性がいたということになります。しかし、神の側では彼女に会う必然があったのです。必然ということは、ザアカイと同様、イエスは彼女のすべてを知っておられたということです。イエスの方から、常識的を越えて、タブーをおかしてまで、心に渇きを持つひとりの女性に近づいたのでした。, イエスほうから彼女の友となろうとして近づいたことで、彼女の最も大切な部分に、奥深い部分に焦点が当てられていくのを私たちはこれから見ることになります。そんなことになるとはつゆ知らず、サマリヤの女性はイエスの話すことばに受け答えしていきます。, しばらくこの二人の会話に耳を傾けてみましょう。まず、イエスの方から女に声をかけます。, イエスの声を聞いた彼女は驚きました。「あなたはユダヤ人なのに。どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ーこの「どうして」は、先ほどもいいましたように、ユダヤ人とサマリヤ人が犬猿の仲だったからです。かつては同じ仲間、親類関係でしたが、ある時からユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑するようになったのでした。いつも上から目線で、見下していたのです。それは宗教的理由からでした。そのユダヤ人が今、腰を低くして「水をください」と頼み込んでいる姿に彼女は驚いたのです。彼女の驚きはさらに続きます。それはイエスが彼女に語ったことばでした。, イエスのこのことばはほとんど彼女にとって全くわけのわからないことばだったと思います。「神の賜物」とか、「あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるか」という第三人称的な表現、そして「生ける水」・・など。彼女はその意味がわかりません。「なに、それ? それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。...【解説を読む】, あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。...【解説を読む】, あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。...【解説を読む】, 私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。...【解説を読む】, 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛...【解説を読む】, あなたがたは今、「私たちは目が見える」と言っています。あなたがたの罪は残るのです。...【解説を読む】, わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。...【解説を読む】. ユダヤ民族 グレーゾーン 預言者. 著者 聖書 Copyright © 2019 nodeplace All Rights Reserved. 呼称は牧師もしくは先生。 修士・修道司祭を除き妻帯可。司祭按手後の婚姻も可。 プロテスタント. !」 しかしこの<行き違い>が正しく修正されないと、イエスとの生きた正しいかかわりというものが築かれることはありません。そこでイエスは彼女のこの「行き違い」を修正しようとします。それは彼女を神との正しいかかわりへと招くためです。それが16節からのやり取りです。, 16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」, 急に話の流れが変わります。このやり取りが意味することはなんでしょうか。このやり取りが、イエスのいう「生ける水」とどのように結びつくのでしょうか。いったいこのサマリヤの女性はどういう女性なのでしょうか。彼女の本当の問題は何だったのでしょうか。5回結婚して、今は結婚していない。結婚はしていないが、今一人の男性と同棲している。きちんと正しい結婚をすることが彼女の問題だったのでしょうか。「いいえ」、です。, これ以上、イエスはなにも述べていません。その沈黙はイエスが彼女になにかを気づかせようとしているのです。何を?。なぜ彼女がそのようなーある意味では悲惨な結婚生活―人生を歩んできたのか。ある意味では異常でもあり、不謹慎、不道徳とも言われかねない、そんな人生を歩んできた根本的な問題に彼女の目を向けさせようとしておられるのです。, 実はこのあと、礼拝の問題に話が移されて行きます。話題が全く違うように見えますが、実は同じテーマが流れているのです。彼女は神を礼拝すべき場所についてそのことを話題にしますが、イエスは礼拝の真の意味を語ろうとします。つまり、神と人と交わりです。, イエスは言われました。「この水―この世が与える水―を飲む者は、だれでも(例外なく)また渇きます。渇き続けます。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがありません(常習的な渇きをいやす生き方から解放されます)。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(13,14節), 「生ける水」、これは神のプレゼントなのです。あまりも高価であるために、だれも手にすることができません。ですから、神は無償にしたのです。御子イエスを信じることを通して、この世のモノで渇きを癒そうとするサイクルから、あなたを解放しようとしているのです。, 28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」, イエスと交わした「渇きをいやす生ける水」の話、それと「霊とまことをもって礼拝する者たちを求めておられる天の父」―この天の父こそ、私たちに「渇くことのない生ける水」を賜物として与えることのできる父であることを気づかせる話が続いています。, こうしたイエスとの対話を通して、彼女の心の中に今まで味わったことのない感動―心動かすものを感じたに違いありません。28節に「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。」とあります。「水がめを置き忘れるほど」の感動とはいったいなんだったのでしょうか。, ここで面白いことは、彼女のうちに起こった感動を「今、いっしょにいる男性」に真っ先に伝えなかったということです。なぜでしょう。普通、自分の味わった感動を真っ先に伝えるのは一番身近な人ではないでしょうか。しかし彼女が今、いっしょにいる男性はそれをわかってくれるような人ではないと感じたからではないでしょうか。, 人間には理解してもらいたいという欲求があります。ですから話を聞いてもらえるだけで理解してもらえたと感じ、ホッとするのです。話を聞くことは相手を癒していることになります。自分のことをなんら責められることなく、受けとめてくれる存在が必要なのです。イエスの彼女がこれまでしてきたことを知っていました。しかしそのことを単に道徳的にいさめたり、社会的な倫理で計ったりすることをしませんでした。彼女の心の奥深くにある渇きを理解しようとしてくれたのです。, そもそもユダヤでは、公の場で男性が女性と会話することはタブーでした。そんなタブーを無視するかのように、勇気というか、大胆といか、ユダヤ人のラビが、軽蔑しているはずのサマリヤ人に対して、しかも人目を避けて水を汲みにきている一人の女性に対して、「わたしに水を飲ませてください」と低い姿勢でお願いし、しかも、この自分に話かけ、決して一方的ではなく、私の対応にうまく応じてくれて、会話を引き出しながら、次第に彼女の心の核心にふれるようなところにまでかかわってくれようとしている。そんなかかわり方に、彼女ははじめて自分の求めているものが何かが分かったのではないでしょうか。, 29節、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(新改訳) この部分を他の聖書でも読んでみましょう。新共同訳では「さあ、見に来てください。わたしが行なったことをすべて言い当てた人がいます。」どうもピンとこない。柳生訳という聖書にこうありました。「, 「私のことを何もかも知っている人に出会う」―そんな出会いが起こるなんてあり得ないし、あっても滅多にないし、そんな出会いなど一生することもなく終わってしまう人が多い中で、「私のことを何もかも知っている人との出会い」は、まさに人生において最高にラッキーな出会いといえます。, サマリヤの女の場合、マルチン・ブーバーの「我と汝」という関係でかかわってくれる人に出会ったと言えます。「我とそれ」の関係でしか生きられない、そんな関係がもたらす、いやしがたい「存在の欠乏」は、「我と汝」という関わりと出会うまでは癒されることはないのです。イエスとの出会いによって、「我と汝」という関係の中に、新しく生まれることなくては「存在の欠乏」は満たされることはないのです。, イエスは今日も「わたしのもとに来なさい」と私たち一人ひとりを招き、「わたしにとどまりなさい」、「わたしのことばにとどまりなさい」、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と語っておられます。なぜなら、私たちを招かれるイエスこそ、渇くことのない「生ける水」だからです。そして、この方を知ること、この方を信じることが、永遠のいのちを得ることなのだとヨハネの福音書は語っているのです。.