詳しくはこちら, <訂正>レナウンの社名の由来になった「レナウン号」の説明について巡洋艦や戦艦としたのは「巡洋戦艦」の誤りでした。また「第1次世界大戦を勝ち抜き、第2次世界大戦では英軍として唯一、生き残った戦艦だった」としたのは、「唯一、生き残った巡洋戦艦だった」の誤りでした。記事を訂正しました。(2020/5/18 17:53), 「レナウンは、5月15日に東京地裁へ民事再生法を申し立てられ、同日、再生手続き開始決定を受けた」, 15日午後、信用調査会社の帝国データバンクのリリースにあまり見かけない表現があった。「申し立てられ」とあり、受け身の文言だ。, では、誰が民事再生法の適用を申請したのか。それはレナウンの子会社、レナウンエージェンシーという損害保険、生命保険代理店などを営む会社だった。関係者によると、親会社のレナウンの…, [有料会員限定] この記事は会員限定です。電子版に登録すると続きをお読みいただけます。, オープンイノベーションで生み出す 変化を乗り切る未来の働き方(東京海上日動火災保険).
アパレルの不沈戦艦、レナウンの自沈 / アパレル大手のレナウンが法的整理手続きに入りました。事実上の倒産です。直接の原因は親会社である山東如意科技集団への売掛金未回収でキャッシュがまわらなくなったことですが、それ以前に駄目な日本企業の典型な企業で変革ができない
アパレル大手のレナウンが法的整理手続きに入りました。事実上の倒産です。直接の原因は親会社である山東如意科技集団への売掛金未回収でキャッシュがまわらなくなったことですが、それ以前に駄目な日本企業の典型な企業で変革ができないことが原因でした。, アパレル激震(上)「トップ不在」 レナウン漂流の末路 仲良しで固められた「部長級」経営陣 百貨店依存、戦略描けず(日本経済新聞), レナウンの社名は1922年(大正11年)英国皇太子(後のウィンザー公)が訪日した際に乗船していた巡洋艦の名前からとった。戦艦レナウン号は第1次世界大戦を勝ち抜き、第2次世界大戦では英軍として唯一、生き残った戦艦だった。, 中興の祖的な存在の元会長の遺言に従いレナウンの社長になった人物は1994年、バブル崩壊の不振の責任をとる形で代表権をもったまま副社長に降格を決め、代わりに気心の知れた人物を社長に据え、社内で実権を握り続けた。取引銀行幹部は「部長か課長が社長をやっていた」と厳しい表情で語っていた。, レナウンの主要な販路は百貨店で、百貨店の成長とともにレナウンも大きくなる構図だ。百貨店の出店戦略、売り場構成などに依存してしまい、レナウン自らが戦略を深く考えることはなかった。一方、百貨店側はレナウンの気を損なっては商品調達に支障が起きるため、腫れ物に触るような対応となる。, 仲良しで固められた経営陣にバブル崩壊、デフレによる経済変化、そして、ファーストリテイリング、ネット通販などの台頭に対応する力が無いのは明らかだった。, それでもレナウン経営陣には危機感は薄かった。取引銀行やM&A(合併・買収)仲介会社がレナウンの書類を持ち、アパレル、ファンド、家電量販店などに話を持ちかけてはみた。先方が興味を示して交渉の段階になるとレナウン側は「他とも交渉したいから」と時間稼ぎをした。M&A仲介会社のトップは「助けてもらいたいはずのレナウンが、相手先を『選ばせてほしい』とは本末転倒」と漏らした。, 危ない会社ほど当事者意識と能力がない典型例です。レナウンは数百万円の小さな取引でも商社を噛ませて口銭を払っていました。利益を上げる体質がではなかったということです。, 社内は金太郎飴的で社内文化と社内政治に通じていることが最も大事だったでしょう。外の世界を視る意識がなかった。また分社化して、そのトップに権限を与えたり、外部の有能な人間を入れることもしてこなかった。, 日本の駄目な組織の典型例です。バーバリーから見放されて経営不振が確実だったのに、自社ビル立てちゃった三陽商会も大変でしょう。, コロナ騒ぎで健全な会社が不運で倒産や整理は避けなればならないと思います。ですが当事者意識&能力がなく漫然と放漫経営を続けていた会社が無くなるのはいいことでしょう。大きな会社であれば即座に無くなるわけではないでしょうし、再建を引き受ける会社も出てくるでしょう。, その場合、経営陣は相応のけじめを取らされて追放され、また高給とって働かない、あるいは若手の足を引っ張るだけの中高年は解雇されるでしょう。, 藤原正彦元お茶大教授がいうような「いい大学をでて、良い企業に就職」すれば一生安泰という時代ではありません。親が知っている(広告費を多く使ってコンシューマー向け製品を売っている)企業に入れば安泰と思っている人は、実は大きなリスクを背負い込むことになります。, この手の会社にはいると社内事情だけは詳しくなって他流試合の実力がなくなります。転職するにしても「部長ならできます」みたいな人になってしまうわけです。, 若い頃広告業界にいた時代のことですが、中外製薬の新聞の企画広告で故大林宣彦監督と女優の栗原小巻さんの対談を企画して、クライアントの課長もOKだして勧めていたのですが、途中から広報部長が「俺は大林なんぞ知らん」と言い出して中止になりました。ぼくは菓子折りを持って両氏の事務所に頭を下げにいきました。, 大林監督はその頃映画監督としてもすでに著名でしたが、元々CM監督の大家でした。その大林監督を知らないというのは広告マンとして、自分は無能と公言しているようなものです。, 現在もこのような無能で、部下の足を引っ張るような人間が相応の地位についているのが日本の大企業の病の深いところです。これでは中国企業には勝てません。, European Security & Defence に以下の記事を寄稿しました。 有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。, 企業での記事共有や会議資料への転載・複製、注文印刷などをご希望の方は、リンク先をご覧ください。 レナウン経営破綻 社長「不在」、四半世紀の悲劇 編集委員 田中陽 田中 陽 2020/5/16 15:38 (2020/5/19 1:00更新) 情報元 日本経済新聞 電子版 以後、レナウンの役員会には出席していない。レナウンは本間が会長、伊藤が社長になる。 1976年、「レナウン・フーズ」を設立、加工食品業界への進出を図る。 1977年、ダーバンが二部市場に株式上場し、その2年後には一部市場に株式上場。 Hitachi wins Japanese bulldozer contract, 編集部より:この記事は、軍事ジャーナリスト、清谷信一氏のブログ 2020年5月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、清谷信一公式ブログ「清谷防衛経済研究所」をご覧ください。, 培養肉がこの先「有望」な食材になりうる事情 環境負荷や食料自給の観点からも期待集まる, 防衛記者クラブの「台所事情」何とも厳しい実態 不要不急の支出、財政破綻の危機を迎えていた. 尾上 清(おのえ きよし、1911年5月23日 - 1988年2月9日)は、日本の実業家。アパレル企業・レナウンの戦後創業者。, レナウンの前身は大阪で佐々木八十八(ささき やそはち)と尾上設蔵(せつぞう)によって1902年に創業されたメリヤス等の繊維卸売業「佐々木営業部」。, 1911年、尾上清は同社の支配人、尾上設蔵の長男として大阪市住吉区帝塚山に生まれた。帝塚山学院小学部、住吉中学をへて慶應義塾高等部に進む。卒業と同時に東京佐々木営業部に入社。同期入社に本間良雄、鈴木達雄、尾上俊郎など後の最高幹部たちがいた。, 1922年、英国皇太子エドワードが巡洋戦艦レナウンで具奉艦ダーバン(英語版)とともに訪日。佐々木営業部はメリヤス等の商品ブランドとして「レナウン」を商標登録した。, 1940年、復員して伊勢丹の小菅丹治社長(初代)の長女、喜子と結婚。達矢、美智子をもうける。, 1944年、平和産業の営業は困難になり、佐々木営業部は「江商」と合併する。尾上清は3度目の招集で沖縄の部隊に入隊、終戦を宮古島で迎えた。復員後に江商衣料品部長になる。, 1947年、尾上清は佐々木営業部を再建し社長に就任。資本金19万5千円、社員25名、大伝馬町の江商ビルの一部を借りて営業を開始した。当初は利益の上がらない会社だったが、尾上は人材や生産設備、宣伝には惜しみなく投資を続けた。「先行投資と消費者重視が2大政策」として1950年代以降から週刊誌やラジオで宣伝を開始した。小売部門として大阪心斎橋に有信実業を設立し石津謙介らと「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザイン・ルーム」を設立。素人のモデルを使い戦後初のファッションショーを文楽座で催した。, 1949年、洋裁ブームにのって高級婦人服地「レナウン・ファブリック」を発売しファッション・ビジネスへの指向を強めていった。, 1952年、製造部門である東京編織を「レナウン工業株式会社」に、3年後に佐々木営業部を「レナウン商事株式会社」に社名変更した。, 1956年、レナウン商事の社長に本間良雄、レナウン工業の社長に鈴木達雄が就任、尾上清は両社の会長になった。本社を神田鎌倉町(現在の千代田区内神田の一部)に新築移転。同年、札幌、仙台、名古屋、広島、福岡の5都市に販売会社を設立し地方小売店への販路拡大を図る。レナウン・チェーンストア(RS)を全国に展開し「暮らしの肌着」を発売した。, 1961年、尾上は「これからはテレビの時代だ」とTV番組提供を命じる。小林亜星作曲の「ワンサカ娘」が誕生した。, 1962年、本格的な婦人既製服時代の到来を予見して「レナウンルック(現ルック (アパレル))」を設立し、米国アーキン社と技術提携して7サイズ表示式の本格的プレタポルテを発表。東村山に建設したオートメーション採用の近代的な縫製工場は話題になった。, 1963年、レナウン商事、レナウン工業ともに資本金5億円となり二部市場に株式上場。東洋一のメリヤス工場を東京立川に完成させた。スーパーストア向けのブランド「ルノン」を発表した。, 1967年、組み合わせニット「イエイエ」発売。NET系テレビ番組『日曜洋画劇場』を提供。テレビCM「イエイエ」がACC(全日本CM協議会)でグランプリ、青島幸男を使った「シリーズ肌着」は金賞を受賞した。以後、毎年数々のCMが受賞し続け、宣伝界をリードした。, 1968年、レナウン工業を吸収合併し、新しい「株式会社レナウン」となり(1月)、尾上清は社長に。資本金16億円、従業員数3,700人。アメリカ合衆国各都市を視察した尾上はドレスだけの専門店が流行していることに眼を見はり、日本で婦人ドレス専門店をつくる決心をかためた。5ヶ月間の準備期間の後に、ドレスギャラリー「レリアン」を設立した。日本で初めての女性のための女性だけの店の誕生だった。翌年「レナウン」一部市場で株式公開。会長・尾上清、社長・尾上俊郎となる。, 1970年、かねてより紳士服分野への進出を意図していた尾上は、紳士服の名門企業「ニシキ」と提携して「レナウンニシキ」を設立した。, 1972年、レナウンニシキは株式会社「ダーバン」に社名変更。イメージ・キャラクターにフランスの人気映画スター、アラン・ドロンを起用。一挙に知名度を上げたものの売上は目標を下回り、3期までの累積赤字は10億円に達した。尾上はダーバン全社員を集めて6時間にわたる訓示を行い「売上の火の玉になれ」と激励。翌年には2億7千万円の黒字に転じた。, 1973年、イタリアンレストラン「レナウン・ミラノ」を設立、外食産業に乗り出した。韓国に「和信レナウン」(後に東一レナウンと社名変更)、ブラジルに「レナウン・ド・ブラジル」、アメリカに「レナウン・エンタープライズ」を設立するなど海外事業の積極的展開を図る。, 1975年、尾上清は創業幹部たちと現役を引退し理事長になる。以後、レナウンの役員会には出席していない。レナウンは本間が会長、伊藤が社長になる。, 1979年、レナウンは伊藤が会長に、稲川博通が社長になる。「レナウン・ホームズ」を設立、衣食住の経営多角化を図る。1982年、伊藤と前会長の本間が死去。, 1988年、尾上は前年の夏にハワイで心臓の手術を受けたが、冬になって病状は悪化し日本医科大学付属病院に入院。2月9日未明、肺炎のため死去。享年76。この時点でレナウン・グループは、グループ51社、売上合計4000億円、資本金合計300億円、従業員合計2万2,000人に達していた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=尾上清&oldid=80285824, 「20世紀日本のファッション―トップ68人の証言でつづる」大内順子・源流社 1996年.