マリアノ・リベラ(Mariano Rivera, 1969年11月29日 - )は、パナマ出身の元プロ野球選手(投手)。, MLBとしては珍しいフランチャイズ・プレイヤーの一人で、ニューヨーク・ヤンキースに所属していた。2013年に現役を引退し、コミッショナー特別表彰を受けた[2]。歴代のメジャーを代表するクローザーの一人で通算652セーブは歴代最多を誇る。, パナマ県パナマ市生まれ。父親は漁船の船長をしていたが、暮らしは決して裕福ではなかった。リベラが初めてのグローブを父に買ってもらったのは12歳の時である[3]。少年時代のリベラは友人とサッカーで遊ぶことも多く、野球は遊びとしてとらえており、プロになるという考えはなかった。高校卒業後は、父の船でイワシ漁やエビ漁の手伝いをしながら、アマチュアの野球チームでプレイしていた。, 1988年当時、リベラのポジションは遊撃手であったが、ある日チームの投手があまりに不調であったため、自ら志願し代役としてマウンドに立った。このことがきっかけで、彼は投手に転向することになった。投手として本格的な指導を受けたことがないにもかかわらず、140km/hの球を投げるリベラを目にしたニューヨーク・ヤンキースのスカウトは、将来性に期待し彼をトライアウトに招待することに決めた。偶然にもその一年前、ヤンキースの別のスカウトがショートとしてのリベラの獲得を見送っていたため、投手としての彼をスカウトすることになったという事実はヤンキースの編成部内に驚きをもたらした[4] 。, 母はプロ入りに反対であったものの、父の後押しを受けて1990年2月17日にドラフト外でヤンキースに入団[5]。, 1990年はルーキーリーグで52イニングを投げて1自責点、防御率0.17と大器の片鱗をのぞかせ、1991年からは先発投手として起用される。1992年には右ひじの内側側副靱帯を痛め、フランク・ジョーブの執刀で右ひじのクリーニング手術を受ける。, 1995年5月23日のアナハイム・エンゼルス戦でメジャー初登板初先発するが、3.1回5失点と打ち込まれ、チームは0-10で敗戦を喫し、試合後にマイナーへ降格となった。当時のリベラは、打者にとっては打ちづらいスムーズな投球フォームこそ高く評価されていたが、最高球速が90mph(約144.8km/h)前後で変化球(チェンジアップとスライダー)もそこそこと、やや物足りない投手だった[6]。そのためデビッド・ウェルズ(タイガース=当時)とのトレード要員としてリストアップされたこともあったが、その直後に周囲の予想に反してリベラの球速が95mphに上がったため、交換要員リストからは外された。9月、スタミナの不安を理由にリリーフへ転向し、19試合のうち10試合に先発登板し、5勝3敗でメジャー1年目を終えた。, 1996年は、抑えのジョン・ウェッテランドへ繋ぐ中継ぎとして61試合に登板して107.2回を投げ奪三振は130、防御率2.09を記録した。チームは15年ぶりにポストシーズンへ進出し、リベラは8試合に登板して自責点は1。18年ぶりのワールドチャンピオンに貢献した。中継ぎ投手として初のサイ・ヤング賞を、という声もあった程で[5]、その投票ではパット・ヘントゲン、アンディ・ペティットに次ぐ3位に入った[7]。, 1997年はウェッテランドがテキサス・レンジャーズへ移籍したことに伴い、その後任としてクローザーに配置転換されたが、開幕後6回のセーブ機会中4回を失敗。一時は自信を喪失していたが、監督のジョー・トーリと投手コーチのメル・ストットルマイヤーらから励まされて立ち直った[8]。, 今ではリベラの代名詞ともなっているカットボールだが、これは偶然をきっかけに習得されたものであった。抑えを任されるようになって数ヶ月したある日、ブルペンでラミロ・メンドーサを相手に投げていた際、ストレートのつもりで投げたボールがメンドーサから見て右にスライドしていった。リベラによれば、メンドーサはこのことにかなり立腹したそうである。数日後、デトロイトでキャッチボールをした際にも、ボールが右にそれる癖は抜けないままだった。そこで2人で話し合って「試合で投げたらどうなるか試してみよう」ということになった[8] 。, 抑えとしての初年度は最終的にリーグ2位の43セーブを記録した。しかしポストシーズンではクリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズ第4戦では、サンディー・アロマー・ジュニアに同点となる本塁打を打たれ[9]、結局チームはこのシリーズで敗退した。, 1998年の春季キャンプ中、監督と投手コーチと何度も話し合い「プレーオフでの失敗を引きずるな」と言われ[8]、気持ちを切り替えてシーズンに臨んだ。4月5日に右脚の付け根を痛め15日間の故障者リスト入りとなるも[5]、36セーブに防御率1.91を記録。ポストシーズンは10試合に登板し無失点の活躍。チームは2年ぶりのワールドチャンピオンとなった。, 1999年、レギュラーシーズンはリーグ1位の45セーブ、ポストシーズンは8試合に登板し無失点。2000年、リーグ4位の36セーブ。2001年2月には4年総額3999万ドルで契約延長した[10]。この年、1986年にデイブ・リゲッティが記録した球団記録の1シーズン46セーブを塗り替える50セーブを記録。ポストシーズンでも好調を維持し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズ第5戦まで10試合に登板、14回2/3を投げて2勝5セーブ、防御率0.61とほぼ完璧な投球を見せていたが、第7戦では、2-1とリードした8回からマウンドに上がりながら、9回に自身のフィルダースチョイスなどでピンチを広げ、トニー・ウォマックに同点適時打、さらにルイス・ゴンザレスにサヨナラ安打を打たれ、負け投手となった。これは現在に至るまで、リベラがポストシーズンで敗戦投手となった唯一の機会であり、またこれによってポストシーズンにおける23連続セーブがストップした。, 2002年は右肩の故障で3度の故障者リスト入りを経験[11]し、46試合の登板で28セーブとクローザー定着後最低の成績に終わったが、5月9日に通算225セーブ目を挙げ、デイブ・リゲッティの持つ球団通算セーブ記録を更新した[12]。, 2003年は股関節の故障で開幕を故障者リスト入りで迎え、シーズン初登板は4月30日[13]と出遅れたが、その後は故障者リスト入りすることもなく64試合に登板し、防御率1.66で40セーブを記録。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズは第7戦の延長11回までもつれ込み、アーロン・ブーンの劇的なサヨナラ本塁打で幕切れとなったが、歓喜のあまりマウンド上で倒れこむリベラの姿がファンに強い印象を与えた。このシリーズではMVPを獲得。この年のポストシーズン全体でも16イニングを1失点(1自責点)だった。, 2004年開幕前の3月23日に2005年から2年総額2100万ドル、3年目はオプションの契約を結んだ[14]。この年、53セーブで最多セーブのタイトルを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースがミネソタ・ツインズを破った直後、義弟であるビクター・ダリオ・アビラとその息子がプールに落ちてきた送電線による感電事故で亡くなったという訃報が届いた。リベラはすぐさま母国パナマへ帰国し、葬儀に参加[15]。自家用飛行機で引き返し、ニュージャージー州の空港へ降り立ち、ニューヨーク市警察のパトカーの先導でヤンキー・スタジアムについた[16]。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦に登板。セーブを挙げている。しかしこのシリーズでは4戦、5戦といずれもリードしてマウンドに上がりながら同点打を喫し、2試合ともチームは延長の末敗れた。ヤンキースはこのシリーズでMLBポストシーズン史上初となる3連勝からの4連敗を喫した。, 2005年は43セーブと前年より10セーブ減少したが、自己最高の防御率1.38を記録するなど投球内容が良かったため、サイ・ヤング賞の最有力候補と目された[17]。しかし、投票数でバートロ・コローンに次ぐ2位に終わった[18]。2006年7月16日のホワイトソックス戦で史上4人目の400セーブを達成。, 2007年、当初はかつてない不調に見舞われた。4月は2試合連続でセーブ機会を失敗するなど7回1/3を投げて9失点を喫し、防御率は一時12.15にまで悪化した。しかし残りの5ヶ月はセーブ機会32のうち30で成功して防御率も2.26と復調した。最終的に、クローザーになって初めてシーズン防御率が3点台を記録したが、シーズン奪三振率は4年ぶりに9を上回った。シーズン終了後の11月には2008年から3年4500万ドルで契約延長した。リリーフ投手として契約総額はB・J・ライアンの5年4700万ドルを下回ったものの、年平均1500万ドルはビリー・ワグナーの1075万ドルを上回る史上最高額となった[19]。, 2008年、肩の痛みを抱えながら投げ続け[20]、WHIP、被OPSで自己最高を記録した。4月27日のインディアンス戦で史上3人目の通算450セーブを達成。9月15日のシカゴ・ホワイトソックス戦で通算479セーブを記録し、リー・スミスを抜いて歴代2位のセーブを記録[21]。シーズン終了後の10月7日に肩の手術を受けた[22]。, 2009年6月28日のニューヨーク・メッツ戦で、トレバー・ホフマンに次いで史上2人目の通算500セーブを達成した[23]。またこの試合では9回表にフランシスコ・ロドリゲスから押し出し四球を選び、自身初の打点も記録した[23]。46度のセーブが記録される機会で失敗は二回のみのリーグ最高のセーブ成功率で、44セーブを記録し、地区優勝・世界一に貢献した。, 2011年5月25日のトロント・ブルージェイズ戦で、史上初となる同一球団での通算1000試合登板を達成した。8月11日のロサンゼルス・エンゼルス戦で史上初となる9年連続30セーブを達成した。9月13日のシアトル・マリナーズ戦で9回から登板、トレバー・ホフマンに次いで史上2人目の通算600セーブを達成した(イチローの盗塁失敗により試合終了)。