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久米宏のニッポン百年物語 - 久米宏のTOKYO空の下 - 久米書店, TBS それ行け!歌謡曲 - 土曜ワイドラジオTOKYO - 久米宏 ラジオなんですけど, 夜はともだち - 4・10月だョ!全員集合 - ムー一族 - わかるかな?ワールドジェスチャー - EXPOスクランブル - ザ・ベストテン - そこが知りたい - 料理天国 - 日本レコード大賞 - 人間ふしぎ不思議 - 笑ってポン! い意思を感じる猫, 猫の伸びきった寝姿に驚きの声, 上野動物園でゾウの赤ちゃん誕生, 「暖房まだ?」ウサギが無言の圧, 猫によるベッドの間違った使い方, 掃除機は絶対許さない会の姉妹猫, 鉄パイプ落下で死亡 業者送検へ. - 新世界 - 好きからはじめよう, あなたと、熱帯 - Stand Up〜Full Metal Armor - 勝手にさせて, M'シンドローム - LIPS - CANCEL - OVERSEA - Midnight Swing - JUNCTION - 晴れ ときどき くもり - AVE MARIA - 時 - 心を込めて... - 優しい世界 - ETERNAL HARMONY - ラスト・コンサート, MINAKO COLLECTION - Look over my shoulder - LIFE -Minako Honda. - なんとかしてヨ! さて、そのザ・ベストテンが、cs放送・tbsチャンネル2で再放送されることとなりました。 私がそのことを初めて知ったのは、今年の4月28日付のこのオフィシャル告知がきっかけです。↓ - 濡れてにアワー!! ダンスが動き出す! - クメピポ! - アッコにおまかせ! 物事の始点だけでなく、終点に着目し周辺状況も整理すると、意外な事実が出てくる――。11月3日午後9時から、昭和の人気音楽番組『ザ・ベストテン』(tbs系)がcs…(2020年11月3日 … 「ザ・ベストテン」(1980年8月14日放送回) TBSチャンネル2 名作ドラマ・スポーツ・アニメ 11月3日 午後9:00~10:00 ほか 東京都多摩市で「サプライズ花火」の打ち上げを11月7日(土)に実施!! フォローした企業がプレスリリースを配信すると、あなたにお知らせメールが届きます。また、あなたのアカウント画面には、フォローした企業のプレスリリースがタイムライン表示されます。フォローするには、Facebookアカウントを使用してログインする必要があります。, 株式会社TBSテレビ(本社:東京都港区、代表取締役社長:佐々木卓、以下TBS)が運営するCS放送「TBSチャンネル2 名作ドラマ・スポーツ・アニメ」では、『ザ・ベストテン』を6月から再放送する。, ※以下、メディア関係者限定の特記情報です。個人のSNS等での情報公開はご遠慮ください。, 企業・事業主ユーザーとして登録すると、プレスリリースの配信・掲載をおこなうことができます, メディアユーザーとして登録すると、記者会見や担当者の連絡先などメディア関係者限定の情報を閲覧できます, フォロワーとして登録すると、フォローした企業のプレスリリースを受信することができます, フォローした企業がプレスリリースを配信すると、あなたにお知らせメールが届きます。また、あなたのアカウント画面には、フォローした企業のプレスリリースがタイムライン表示されます。フォローするには、Facebookアカウントを使用してログインする必要があります。, 今年も生中継!『横浜DeNAベイスターズ ファンフェスティバル2020』12月6日(日)午前11時30分からイベント終了まで!CS放送・TBSチャンネル2にて放送, TikTokフォロワー470万人超え!景井ひながテレビ初MCで参考にしたのは超実力派司会者?『カバーガールTVネクスト』TBSチャンネル1で11月28日(土)スタート, 全世界で大ヒットを記録!BTS ドキュメンタリー映画「BRING THE SOUL : THE MOVIE」TBSチャンネル1で10月24日(土)午後9時 日本初独占放送!. ]。, 第4位までの発表が終わると週によりランキング外の1・2曲をピックアップして「今週のスポットライト」というコーナーで紹介した。11 - 20位の曲もVTRで紹介され、出演者が少ない時には30位や50位からの発表もあった。, ベストテン圏外の曲は、20位から11位の順に紹介する。それと共に、過去4週の順位も折れ線グラフ(初期はなかった)で表示される。但し、時間がない場合はボードのみでの紹介となる(末期は、この形が非常に多かった)。それに対して黒柳が、初登場の曲に対しては「確実に上向きです」少しずつ上昇気味の曲に対しては「○○さん、お待ちしています」先週、10位以内だった曲に対しては「先週●位でしたのに…」順位が先週と同じ曲に対しては「●位の所で足踏みです」10位以内に入って、尚且つ少しずつ下降気味の曲に対しては「○○さん、お元気でしょうか」最高位が11位程度の下降気味の曲に対しては「お待ちしていましたのに…」変動が激しい曲に対しては「ジグザグです」等とコメントするのがお決まりとなっていた。, ただし、50位~31位を紹介する時は、オープニングの演奏と共に曲と顔写真のパネルを表示するだけで、折れ線グラフも、得点の表示もなかった。, 1980年代後半にはグループのメンバーの一部が別行動している際には、そのメンバーを他のメンバーがいる中継先の映像にビデオ合成するということも行われた。この時期になると歌手がミュージック・ビデオを作成しプロモーションに使うことが一般的になってきたが本番組では「木曜9時の放送時間に歌ってもらう」ということが番組のコンセプト(そのための追っかけ中継)であったため出演できない歌手のミュージック・ビデオを放送するという代替措置は原則としてなかったが、複数回ランキング入りした曲では欠席した際に過去の週の出演映像を流すことがあり、VTRには放送日のテロップを入れていた。, 番組の最後には、出演者全員(中継先の1つが参加する場合もある)で集合写真を撮影し、その写真(番組中期以降は写真をジグソーパズルにしたもの)を番組宛てにリクエストはがきを送った視聴者に毎週抽選でプレゼントしたり、番組内でリクエストはがきが採用された視聴者には無条件でプレゼントするのが恒例だった。「ハイポーズ」の掛け声は主に第1位を獲得した歌手に振る事が多かった。なお、200回と番組終了時にこれらの集合写真・初登場時のサインを本にまとめ、国立国会図書館および各都道府県立の図書館に寄贈した。ネットした各放送局も所蔵しているが、開局記念イベント等以外は非公開となっている。, 番組が終了した1989年を除く毎年末に「年間ベストテン」、1981年からは6月に「上半期年間ベストテン」[注釈 3] を発表し、1988年には「月間ベストテン」も発表。1978年から1980年までは、年間ランキングでは得点は発表されなかった。年間ランキングの回が3時間の「豪華版」となって「年間ベストテン」を発表したのは1982年からでそれ以前は通常放送と同じく1時間枠内でその週のベストテンの後で放送しており、1978年は1位のみ、1979年は3位と1位、1980年は3位・2位・1位、1981年は2位と1位がスタジオで歌われた。, 1986年1月には、1985年の歌手別年間ランキングが発表された。テロップと字幕での発表でランキングボードは使われなかった。なお、歌手別ランキングが発表されたのはこの年だけだった。, 1983年11月10日は放送300回を記念して長崎からの生放送を行った。その後も節目の50回ごとにJNN系列のある全国各地を回る公開生放送を行った。放送地では地元をあげた盛り上がりで市長が登場するなどお祭り騒ぎとなる。, 初回放送の前週に放送された『ザ・ベストテン前夜祭』(1978年1月12日)が黒柳・久米コンビの司会スタート。正式の最終回(1989年10月5日)は4代目の黒柳・渡辺・柄沢トリオが主に司会を担当した。, なお、上記の放送回数はランキング紹介を行ったレギュラー放送回についての通算回数を表記しており、この前夜祭と正規最終回の回数は含まれていない(これらを含むと通算放送回数は605回)。また、初代男性司会者の久米については前番組に当たる『トップスターショー・歌ある限り』のサブ司会を担当しており、それを含めたTBS木曜21時枠での通算司会期間は計9年7か月となる。, 当時のTBSでは、前番組である『トップスターショー・歌ある限り』の視聴率が振るわなかったことから、新しい音楽番組の制作を企画することとなった。当時TBSプロデューサーだった田中敦が当時の制作局長に「いい歌番組のアイデアがないのか」と聞かれ、その時「毎週、一番売れている人気曲を10曲並べてベストテン番組を作れば面白いかも。出来っこないですが…」と提案をし、制作局長も「そのアイデアいただき、やってよ!」と一発で快諾した[7]。, 当時のスタッフ内部では、「(当時流行し始めた)ニューミュージックの歌手はテレビ出演を拒否する者が多いため、客観性を持ったデータによるランキング方式では番組が成り立たない恐れがある」との理由から、番組スタッフの主観で出演者を選ぶ「キャスティング方式」を継続すべきとの意見が主にベテランスタッフを中心に根強く、「キャスティング方式ではニューミュージックの歌手などが取り上げられない」との理由でランキング方式を支持する若手スタッフとの間で意見が真っ二つに分かれた。結局当時の制作局長の裁定でランキング方式による番組の制作が決定したが、この対立のために当初1977年10月に放送を開始する予定であった新番組は3か月スタートが遅れ、1978年1月にスタートがずれ込んだ[8]。当時マネージャーであったプロモーターの大里洋吉は『ザ・ベストテン』のスタートは、キャンディーズの解散が密接に関係していると話している[9]。, 初代司会者の決定の経緯については、資料によって内容が異なっている。山田修爾の著書『ザ・ベストテン』によれば、最初にTBSの局アナウンサーだった久米が前番組から続投することが決まり、次に相方を女性とすることとなって黒柳がキャスティングされた。制作サイドでは西田敏行を加えた3人体制での司会を予定していたが、西田がスケジュールの都合がつかず、結局2人体制で番組がスタートすることとなった[10]。久米は当初『トップスターショー』を最後に音楽番組の司会から足を洗うつもりだったが、黒柳とのコンビが決まったことで音楽番組を担当し続ける気になったという[11]。しかし2013年9月27日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で紹介されたものでは、先に黒柳の起用が決まり、久米が中継リポーターを務めるTBSラジオの番組にゲスト出演していた黒柳が、もう1人の司会が決まっていない状況を知り、気に入っていた久米[注釈 4] の起用をスタッフに打診したとのものだった。なお、黒柳と久米は番組開始前の1977年暮れに同じTBSの番組「第19回日本レコード大賞」で司会を担当し共演している。, 初回放送の前週(1978年1月12日)に『ザ・ベストテン前夜祭』を放送。前半は、昭和43年 - 昭和51年の年間オリコン1位の楽曲を出演した歌手が持ち回りで歌唱。, 後半は、レコード売り上げと有線放送のデータのみに基づいた1977年の年間ランキングを発表。テーマ曲はレギュラー放送と異なるアレンジで生演奏。, またゲストとして山口百恵・桜田淳子・殿さまキングス・八代亜紀・郷ひろみなど合計15組が出演した。「スポットライト」のコーナーもあり、日野てる子が「夏の日の思い出」を歌った。前夜祭ということもあり、番組は会場のTBSテレビ局舎・Gスタジオにいくつかのテーブル席が設けられたお披露目パーティーのようなものであった。歌のセットは作られず、バンド前に全歌手が椅子に座っていた。ランキングボードは、本放送でのパタパタパネルではなく、手書きにより左側にオレンジ色の文字で過去の年間1位曲、右側に白文字で1977年の年間ベストテンが表示され、その前に置かれたソファーには黒柳・久米の司会者コンビが時々座っていた。歌手以外にも福田一郎などの音楽評論家・プロダクション関係者も出席していた。オープニングのテーマもおなじみの音楽ではなく全く違うものが使用された。視聴率は21.4%[12]。, 1978年1月19日に放送開始。放送時間は21:00 - 21:55。ここから週間ランキングを発表。, 当時人気絶頂だった山口百恵の「赤い絆 (レッド・センセーション)」が惜しくも第11位・「秋桜」も第12位でのランキングにより登場出来ず、また4位にランク入りした「わかれうた」の中島みゆきはレコーディングを理由に生出演を拒否するなど、初回から順風満帆とはいかなかった。それでも視聴者からは正直なランキングの発表に評価があった。これは、黒柳が司会を引き受けるに当たり「番組の演出で順位を動かすことはしないで、正直な形で順位を発表してほしい」という条件を付けたことを守るためだったと言われている。実際黒柳は、後に対談で「ランキングが不正操作されていないかどうかを確認するため、総合ランキングの集計結果を毎週100位までチェックしていた」と語っている[13]。, 初回の「今週のスポットライト」はランキングとは無関係に懐メロとしてフランク永井・松尾和子の「東京ナイトクラブ」。初回は1 - 10位は曲名と点数、11 - 20位は曲名のみの発表だったが、2003年12月31日放送の『ザ・ベストテン2003』でこの週の11 - 20位の点数、21位 - 30位の曲名と点数が初めて明らかにされた。, これまでにない「ランキング形式での歌番組」という位置づけ、オリジナリティあふれる演出、中継での歌唱、黒柳と久米の掛け合いなどが人気を集め、「ベストテン」は1年足らずで常時30%近い視聴率を取る人気番組となった。山口百恵やゴダイゴ、サザンオールスターズ、沢田研二らが積極的に番組に出演し、80年代になると、アイドル系歌手が出演することが多くなり、田原俊彦、近藤真彦、松田聖子、中森明菜、小泉今日子、河合奈保子、シブがき隊、早見優、堀ちえみらが継続的にランクインするようになった。さらに1982年から「豪華版」がスタートし、こちらも30%近い視聴率を記録した。, 放送8年目に突入してもなお高視聴率を誇った「ザ・ベストテン」だが、後述の司会の久米宏の降板をはじめ、テレビ出演を主としないアーティスト系もランクインするようになり、欠席などが目立つようになった。さらにフジテレビ側がおニャン子クラブを出演させないという方針を取ったため、1986年の7月31日から翌年の春までグループおよびメンバーの出演が一切なかった。番組側は当初、欠席理由に対して「レコーディング中」「ライブをしている」としていたが、松下賢次司会後は「各方面と折り合いがつかず」という理由が使われるようになった。依然として「ベストテン」は久米降板後も20%近い視聴率をキープしていたが、徐々に勢いを失っていった。, 番組は10年目を迎え、「月間ベストテン」をスタートさせ、ランキングボードやオープニングを新しいものにした。光GENJIや南野陽子、工藤静香らが番組に華を添えた。夏頃までは20%を超える回もあり歌番組の中では安定した人気を誇っていた。しかし88年10月から裏番組としてフジテレビで「とんねるずのみなさんのおかげです」がスタートし、一気に視聴率を逆転される。89年から司会を渡辺正行メインにし、初登場だけに関わらず歌詞テロップを出すなどのテコ入れをしたが効果は見られず、1989年7月6日に番組内で打ち切りを発表。2ヶ月後の9月28日に最終回を迎えた。, 毎年最初の放送の前にスタッフが「今年こそ迷場面集で笑いものにならないように誓います」と宣言するものの、生放送が故、うっかり裏方のスタッフが横切ったり、あるいは画面に堂々登場するといったトラブルやハプニングは多かった。下記に主なハプニングや放送事故を列記するが、「放送事故」に関してはその旨該当項目冒頭に記述する。, 雑誌『REBOOT』(ソニー・マガジンズ)Vol.4(2007年12月号)「ザ・ベストテンの時代。」放送30周年目前特別対談[注釈 15] 時に黒柳徹子が着用した衣装は第1回と最終回と同じだったことを明かされ、それを見た山田修爾は「不覚にも全く気付きませんでした。」と述べている。, 2013年7月27日にTBSラジオで放送された「久米宏 ラジオなんですけど」の冒頭のトークで久米はこの番組を「ノンフィクションの音楽番組である」と述べている[要出典]。, これは番組をNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』でパロディーにされたことに関連して述べたもので、久米をまねた司会者役で登場した糸井重里が、台本のようなものを持ち進行している様子を見て「私は台本を見て『ザ・ベストテン』をやったことが1回もない」と述べたうえで、「これまでの歌番組はあらかじめ台本が用意されており、台本通りの質問に、台本通りにゲストが答えるという体裁だった。これでは面白みがないので、スタッフや司会者(久米・黒柳)らの意見として、台本のないノンフィクションの要素を取り入れた番組にしたい」といっていた[要出典]。, 視聴率は1978年1月の放送開始から1989年9月までの11年8ヶ月を通して非常に高視聴率をキープしており、放送開始当時目標にしていたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」の視聴率を数ヶ月で超えてしまい、全盛期には25~35%もの高視聴率を取っていた。また、「ベストテンにランクインして曲を披露すること」が歌手達のステータスとなり、より番組の存在価値は大きなものとなった。604回の平均視聴率は23.9% (ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。事実上の最終回とされる1989年10月5日の「さよならザ・ベストテン」の視聴率は20.5%を記録し、20.7%を記録した1988年9月15日以来1年ぶりの20%超えとなった。, 視聴率が85年を境に急落しているのは初回から司会を担当していた久米宏が降板したことや、中村あゆみや渡辺美里、BOØWYといったテレビ出演に消極的なアーティストがランクインしても出演を辞退したことで出演者席に空席が目立つようになったからである。89年にも下落が見られるがこれは前述の通り、フジテレビで同時刻に「とんねるずのみなさんのおかげです」がスタートしたからである。, 2005年9月30日の『中居正広の金曜日のスマたちへ』の「ザ・ベストテンの真相」でのランキング。, 歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、“追いかけます、お出かけならばどこまでも”を売りに、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦や生島ヒロシ、JNN各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、TBS系列各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であった。なお、海外中継や延長戦など「追っかけマン」「追っかけウーマン」が登場せずに歌手だけのケースも存在する。, 初登場の松田聖子は羽田空港に到着後すぐランプエリアで歌い、その後甲子園から梅田へ向けて走る阪神電車の車内で歌ったり、現役の国鉄職員だった「車掌さん歌手」こと伊藤敏博は勤務先の富山県や石川県の北陸本線の駅や車両基地で歌い、『スチュワーデス物語』撮影中の堀ちえみが、日本航空のスチュワーデスの服装で(すなわち、撮影用の衣装のまま)成田空港のハンガー内に駐機しているボーイング747の機内で歌ったり、郷ひろみが熊本駅に停車中で出発間際の特急おおよど(肥薩線経由、宮崎行きで現在廃止)に乗車し乗降デッキで歌っている途中でドアが閉まり発車した事、近藤真彦と田原俊彦が原宿・表参道のど真ん中を走るキャデラックのオープンカーの上から中継したり(これは後日、「ひょうきんベストテン」において片岡鶴太郎や松本竜介によってパロディのネタにされることとなる)、斉藤由貴がNHK連続テレビ小説『はね駒』出演中、収録の合間を縫ってNHKの駐車場に簡易セットを組み立てて歌ってもらうなど、変わったシチュエーションでの中継も多かった。, 新幹線での移動途中の中継は番組でよく行われ、静岡駅や名古屋駅、新大阪駅での停車時間帯を狙った中継も多かった。特に静岡駅や名古屋駅では停車時間が短いこともあり、歌の途中でドアが閉まり、そのまま発車してしまうことも幾度かあった。移動途中での中継は「新幹線から下車してホームで歌う」「停車時間に合わせてデッキから歌う」というパターンが多かったが、「駅周辺のビルから新幹線の車中で歌う歌手を撮影」という今では考えられないような中継もあった。田原俊彦(「ピエロ」1983年3月31日放送、名古屋駅停車中)や小泉今日子(「迷宮のアンドローラ」1984年8月16日放送、静岡駅停車中)、中森明菜(「十戒-1984-」1984年8月23日放送、姫路駅停車中)などがこのパターンだったが、田原のケースでは唄っている途中に列車が出発してしまい、小泉のケースでは本人はどこから撮影しているか最後まで分からないようであった。, コンサートで地方に行っている歌手が、終了後に近くの名所から中継することも多く、沢田研二はグラバー園から、松田聖子は松本城などからの中継もあった。名所だけでなく、渥美二郎は営業先である山形のキャバレーのステージから、また欧陽菲菲や中山美穂は郵便局の中といった、変わった場所からの中継もあった。, 国内中継での珍しいパターンとしては、東名高速道路を車で移動中だった田原俊彦(東京から西へ)と中森明菜(愛知県瀬戸市から東京へ。「少女A」1982年11月18日放送)が、いったん高速を降り、静岡インターチェンジ至近にあったSBS本社から中継で歌うというものもあった。しかし田原の方は番組放送時間中にSBS本社へ到着できず、放送終了後何とか到着したところで、SBS本社に見物に来たファンへのサービスおよび翌週放送分の素材として収録を始めたが、マイクロ回線の使用予約時間を過ぎてしまい、曲の1番を歌い終えたところで回線が途絶えてしまうというハプニングもあった。また田原の中継では温泉の男湯から行ったものもあった。これは直前にジャニーズ系タレントのイベントで将棋倒し事故が起こったことから、「女の子のいないところから中継しよう」と言う判断に基づいたものであった。, 海外からの中継も多く、杏里のホノルルのレコーディングスタジオからの中継、近藤真彦のハワイ沖の豪華客船からの中継、徳永英明のニューヨークからの中継、一風堂のロンドンやリヴァプールからの中継(イギリスのロックバンド・JAPANとの共演)、カリフォルニア州のデスバレーでパラシュートを背負った沢田研二が「TOKIO」を熱唱した一件などがある。当時政情が不安定だったカンボジアでロケ中だった南野陽子を追いかけてソ連の支援で建てられたプノンペンの放送局から中継したこともある。, 司会の黒柳が夏休みを取り海外に行っている場合は音声や映像でスタジオと繋いで司会をした。出演歌手がスタジオに来られない場合はスタジオ、黒柳、歌手と3次元中継も行われた。1984年8月23日の放送では黒柳と久米が休暇でドイツに行っていたため、2人がミュンヘンから衛星中継で司会を行った。, 少年隊はオーストラリアのアデレードから生中継を行ったが「ABC」(1988年1月28日放送・同年1月月間ベストテン4位、週間10位)を歌唱中に、現地のテレビ局の電波と中継用の衛星回線が混線したのが原因で、突然現地のドラマの映像が流れ出す、といったハプニングがあった。この時の司会の松下は、少年隊が歌っていた時にソファーで横になっていたが、すぐさまオーストラリアのドラマの映像(中年の男性が映っていた)に対して「この方はオーストラリアの大変有名な俳優さんでございまして、日本の森繁久彌さんのような非常に重厚な演技で知られております」とアドリブで解説を入れた。, 追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の一つとして「毎年海外旅行に行くので2 - 3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因。しかし番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた[47]。黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のニューヨークに始まり[48]オスロ、パリなど毎年夏の恒例となり、1984年には久米も一緒に海外に飛び出してミュンヘンからの生中継を行った。, 当番組が始まる以前には、『TBS歌のグランプリ』でも不定期に全国各地からの中継を行っていた。, 久米時代にはスタジオからの呼びかけがあってから、追っかけマン・追っかけウーマンが自己紹介をしていたが、久米降板後はランキング発表後すぐ中継に入り、自己紹介は廃止された。, 代役司会として多くのタレント・文化人が様々な形で登板した。代役司会の最初とも言うべきはタモリで、1981年2月5日に久米宏の代打として登場。久米明とのコンビ登場(1983年8月25日)などその後もさまざまな形でベストテンに登場した。, 久米宏担当時においては、1981年の女性問題による不祥事による謹慎時、また1982年6月17日と6月24日放送で久米が盲腸炎(虫垂炎)で入院し欠席した際には、追っかけマンだった松宮一彦と生島ヒロシが代役を担当した。, 特に1985年4月の久米降板から2代目司会者に小西博之に決定するまでの1985年5月から9月の間は、黒柳のパートナー不在のため代打司会を多く起用している。これは、久米が2代目の司会に松宮の起用を望んでいたものの、久米の後釜というプレッシャーから辞退したなどのため、なかなか正式な司会が決まらなかったことによる。, 松下担当時は、TBSの労働組合のストライキのため番組を欠席したが、このときは代理司会を置かず、スタジオには頭に鉢巻、肩に襷をかけ、右手にマイクを持ったタキシード姿の松下の等身大の人形が置かれた(1987年4月23日放送)。また追っかけマンもTBS担当分については、通常は出演していなかった藤田和弘[注釈 25] など管理職および役員待遇のアナウンサーらが担当していた。, 一貫して司会を務めた黒柳も、1984年にユニセフ国際親善大使に任命されてから海外への会議や視察のため年に1 - 2回ほど番組を欠席しており、その際は男性司会者が単独で司会をすることが多かったが、特別に代理司会を立てることもあった。, ゲスト司会者登場時の進行補助、もしくはゲスト司会者が登場しない回における進行を、1985年5月2日から6月27日放送までは松下賢次、7月4日から9月26日放送までは生島が担当した。, 1989年からは、柄沢晃弘が欠席の時には、ベストテン特派員の吉本多江が代理出席する程度。ただし、大リーグ観戦で欠席した9月7日の600回は追っかけマンの松宮が担当した。1月5日放送のみ歴代の司会者の一部が登場した以外は通常の司会者が務めた。最終回直前になると、黒柳・渡辺・柄沢・吉本の4人で司会進行する回がしばしばあった。, オーケストラのセットは開始から中心が「10」の文字となっておりその「0」の中にギターとピアノ演奏者の2名を配置していたが、1981年3月26日の放送からステレオ放送対応とともに円形になり4名に増員された。この時にランクイン曲の多様な伴奏に対応するためシンセサイザーが導入された。, この「0」と同じデザインが歌手の足元にも配置されておりソロ歌手はその中心で歌っていたが、オケ前でもセットや多彩な照明演出が行われるようになったため、使用は番組開始すぐの司会者のトーク時のみで1987年ごろから歌唱シーンには使用しないようになった。, 夜のヒットスタジオ(1985年4月のリニューアルから管楽器7名削減)など他の音楽番組が、1980年代後半になるとオーケストラの生演奏を必要としない歌手が増えたことを理由にオーケストラの人数を縮小または廃止したにもかかわらず、本番組では設置されない週が増えこそすれ処置としての縮小や廃止は一切とられなかった。これは、音楽監督の判断だった。, 基本は36名編成(管楽器13名、弦楽器14名、ピアノ1名、ドラム1名、シンセサイザー1名、ベース1名、パーカッション2名(ラテン1、クラシック1)コーラス女性3名), オーケストラメンバーは基本的に白のジャケット、黒のパンツで女性は白のドレス姿だった。曲のイメージによって中森明菜が「SAND BEIGE -砂漠へ-」でランクインした際は全員がアラビア風のクーフィーヤをつけたり、南野陽子が「話しかけたかった」でランクインした際は詰襟学生服を着て演奏したりと、番組に花を添えていた。, 同週2曲以上のランクインの場合1曲=1週とカウント(公式本:別冊ザ・テレビジョン ザ・ベストテンの「ランクイン総週数ランキング」データに準拠), 番組初期によく出演したが、後半になると出演拒否に近かった歌手。1980年代後半になると出演拒否が目立つようになる。この番組だけに限らず、同じランキング形式の番組である『ザ・トップテン』『歌のトップテン』や、その他歌番組などでも似た現象が見られた。, 当時の人気やゴシップなどの影響から、松田聖子と田原俊彦の関係には非常に注意が払われ、番組セットの待機席でも二人が隣り合わないように席を決めたほか、新聞でも二人の名前を並べて掲載しないよう配慮が行われていた[57][注釈 36]。, 番組制作費は年間で約1億円の赤字だった。番組自体は非常に高視聴率であり、スタッフの間では社長賞を期待する意見も多かったが、当時の社長から「年間いくら赤字を出しているのか考えてから言え」と一喝されてしまったという。結局社長賞は番組10周年の際に「10年間お疲れ様」の名目で出されたのみであったとのこと[58]。, 黒柳が1980年 - 1983年までNHK『NHK紅白歌合戦』の紅組司会に起用されたのは、本番組の影響も大きかったとされる[59]。, 2013年、スタッフとして番組を支えてきた山田修爾が8月28日に、弟子丸千一郎が10月27日に相次いで他界した。, 2020年6月、番組テーマ曲を作曲した服部克久が他界。2020年7月18日放送の『音楽の日』では、服部メドレーの一つとして、番組テーマ曲が放送された。, 神奈川県横浜市にある放送ライブラリーでは、1986年10月30日放送分[60] と2003年12月30日に放送の『ザ・ベストテン2003』[61] が視聴可能となっている。, ぴったし カン・カン - 料理天国 - トップスターショー・歌ある限り - 日本レコード大賞(第19回 - 第20回) - ザ・ベストテン - おしゃれ - 4・10月だョ!全員集合 - オリンパソン'80 - 久米宏のTVスクランブル - ニュースステーション - A - 久米宏のテレビってヤツは!?