出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 江戸前期の思想家。寛永(かんえい)4年7月20日、京都堀川通勘解由小路(ほりかわどおりかげゆこうじ)北に生まれる。幼名は源七、字(あざな)は源佐(げんすけ)、名は維楨(これえだ)。祖父の鶴屋(つるや)七郎右衛門は商(あきない)(何商か不明)で財をなし、里村紹巴(さとむらじょうは)・玄仲(げんちゅう)(1576/1578―1638)に連歌(れんが)を学び、妙心寺の大化(たいけ)・一冲(いっちゅう)に参禅した。父は次男で別家して鶴屋七右衛門を称した。母の那倍(なべ)の父は幕府の連歌師里村玄仲、母は角倉(すみのくら)一族の医師吉田易安(よしだいあん)の娘。那倍の姉妹は宮廷出入りの医師や蒔絵(まきえ)師に嫁いでおり、仁斎自身ものちに本阿弥(ほんあみ)家と近親の尾形家から妻を迎えている。仁斎は、父方からは教養と閑暇を尊ぶ京都の富裕な町人の、母方からは京都の上流文化人の精神的影響を受けて育った。彼は家人の願いに反して医師を嫌い、儒学者を志した。青年時代には独学で朱子(しゅし)(朱熹(しゅき))の書を読み、その『敬斎箴(けいさいしん)』に傾倒して敬斎と号し、さらに1655年(明暦1。29歳)には松下町に隠棲(いんせい)して陽明学から仏老の教えに入り、白骨観法を修め、対人道徳(人倫の道)は浅薄でいうに足らぬと考えた。しかし3年後の1658年(万治1)に『仁説』を書いて、仁の本質は愛であるといい、号を仁斎と改めた。1662年(寛文2)36歳のとき家に帰って鶴屋七右衛門を襲名するとともに「古義堂」塾を開き、終生町(まち)学者となって諸侯の招きに応じなかった。宝永(ほうえい)2年3月12日79歳で没した。, 仁斎は塾における同志的会合を中心に、京都の公卿(くげ)、専門文化人、根生(ねおい)の分限者たちと文化的教養を楽しむ社交会(サロン)をつくり、その雰囲気のなかで古義学を大成していった。彼は『論語』『孟子(もうし)』2書を後人の注釈によらず直接に熟読精思して、孔子・孟子の思考方法、文章の作り方を会得したうえで、その字義を正しくとらえるとともに、孔孟の思想の真髄をつかもうとした。彼は『論語』を「最上至極宇宙第一書」、『孟子』を『論語』の義疏(ぎしょ)といい、『大学』は孔子の遺書ではない、『中庸(ちゅうよう)』の終わりの数章は漢儒の雑記、前半は『論語』の旨趣には合致すると説いた。しかし仁斎は学者よりは思想家であった。自分の「生活を脚注」として『論語』『孟子』を読み、孔孟の精神に迫ろうとする「古義学」的方法は、彼の学問に時と所と人の刻印を押すことになった。彼は、朱子学の説く社会の身分秩序を守る心(義)とその秩序の主宰者に帰向する心(敬)を退けて、社会成員が身分的相異を超えて自他不二の境地をつくる情意的な仁愛を尊んだ。仁斎にとって聖人はその愛を天下に満たす宇宙最大の文化人で、その理想郷の王道楽土は政治と権力のないユートピアであった。仁斎は、封建的倫理的政治学であった儒教から元禄(げんろく)京都の社交会の体験を濾過器(ろかき)として、封建性と政治性を取り去り、かわりに人類性と社交性を与えて、儒教を社交的倫理の学につくりかえたのである。, 仁斎は朱子の理気二元論を排して気一元論を説いているが、自分はしいていえば気一元論をとるが、日常経験を超えた存在は考えないほうがよいと述べている。この態度は古医方(こいほう)に影響を与えた。後藤艮山(ごとうこんざん)、香川修庵(かがわしゅうあん)(1683―1755)が元気の溜滞(りゅうたい)に、吉益東洞(よしますとうどう)が一毒の所在に病因を求めながら、元気や毒のなんたるかは穿鑿(せんさく)に及ばぬと経験的実証の立場をとった態度に影響したと考えられる。, なお仁斎には東涯(とうがい)、梅宇(ばいう)(1683―1745)、介亭(かいてい)(1687―1772)、蘭嵎(らんぐう)の4男子がいて家学を継承したが、仁斎自身の著書としては『語孟字義』『童子問』『大学定本』『中庸発揮』『論語古義』『孟子古義』『古学先生文集・詩集』その他があり、その多くは没後東涯によって刊行された。仁斎の墓は洛西(らくせい)の二尊院(にそんいん)にある。, 『加藤仁平著『伊藤仁斎の学問と教育』(1940・目黒書店/復刻版・1979・第一書房)』▽『石田一良著「伊藤仁斎」(『日本文化研究 第5巻』所収・1959・新潮社)』▽『石田一良著『伊藤仁斎』(1960/新装版・1989・吉川弘文館)』▽『『日本思想大系33 伊藤仁斎・伊藤東涯』(1971・岩波書店)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …この時期,儒学と無縁の立場で自由に詩を作った人に石川丈山と元政(げんせい)があって,やがてきたる詩文自立の動きの先駆となっている。 元禄期(1688‐1704),京都に伊藤仁斎が出現して,朱子学の道学主義に反対する儒学説(仁斎学)を唱える。寛容な人間観に基づいて人欲を肯定するその思想においては,文学は人情の真実の表現という積極的な役割をになうにいたる。…, …江戸前期の儒者伊藤仁斎の著書。最古稿本は1683年(天和3)5月に成立し,最終稿本は原文の成立時期が未確定であるが,仁斎の補正は死去直前まで続行された。…, …江戸前期の儒学者伊藤仁斎(1627‐1705)が築いた思想体系。思想的目標からみて古義学,成立場所からみて堀川学ともいう。…, …もし人間性の尊重が近代思想の特徴の一つであるとすれば,これはまさに近代の萌芽を示すものといえよう。この戴震にきわめて近い主張は,日本の古学派の祖の伊藤仁斎にも見られるが,それが戴震よりも70年以上も先立っていることが注目される。しかも戴震の論がさほどの反響を呼び起こさなかったのに反し,仁斎は多くの共鳴者を得たばかりでなく,後の思想界にも大きな影響を残した。…, …江戸時代前期の儒者伊藤仁斎が著した問答体の概説書。童子に説き聞かせるという形式をとっているが,仁斎学の原理論・方法論・実践論を整然と体系的に示した書物として著名である。…, …中江藤樹は《孝経》に注目し徳の要(かなめ)は孝にあるとした。伊藤仁斎は〈徳は仁義礼智の総名〉(《語孟字義》)とした。こうして徳は理念性を帯びることになる。…, …古くから運河として利用され,丹波から桂川へと流された材木は堀川をさかのぼって五条付近まで運ばれ,中世には材木市が立ち,商人が集住した。堀川沿いには江戸時代にも材木商が多く,儒者伊藤仁斎の生家は材木商であったと伝え,堀川学派の古義堂も堀川下立売にあった。近世後期には川沿いに染色業も発達する。…, …こうして,誠が,人間関係における真,君臣関係における真として使われることになった。伊藤仁斎は誠を定義して〈誠は実なり。一毫の虚仮なく,一毫の偽飾なき,まさに是れ誠〉(《語孟字義》)とするが,ここで意味として託されているものは人間の交わりにおける心情の偽りのなさにほかならないのである。…, …また,同時代の羅欽順(らきんじゆん)(整庵)や王廷相らは,理よりも気を世界の根源として理の実体化を批判し,清の戴震(たいしん)も理の実体化には反対し,理を事物に内在する条理だとした。日本の伊藤仁斎も,戴震より早く〈理は気中の条理のみ〉(《語孟字義》天道)と言い切っている。【三浦 国雄】。…, …10巻。伊藤仁斎(1627‐1705)の著で,その思想的立場と深く関係している。彼は《論語》を〈最上至極宇宙第一の書〉と尊重し,《孟子》をその補助として,この2書によってその古義学を構築した。…. !』 生活の友社. 2019/5/27 23:50 . 美術人名辞典 - 伊藤仁斎の用語解説 - 江戸中期の儒者。古義学派の創始者。京都生。名は維楨、字は源佐、初号は敬斎。初め朱子学に心酔したが、やがて疑義を抱いて孔孟の古義に溯る、いわゆる古義学に到達した。宝永2年(1705)歿、79才。 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 けっこうたのしかった。原作は鬼塚忠の同名小説で、古い伝説をもとにした時代劇。ストーリーはだいたいこのようなかんじ。ときは天正年間、舞台は織田信長から豊臣秀吉へと治世がうつりかわるころの京都だ。都に、頂法寺というお寺がある。このお寺は、お坊さんがみんな、「池坊(いけのぼう)」という流派の華道をやる。町の人たちにも気軽にお花を教えたりするので、とても慕われているお寺だ。そこに、専好(野村萬斎)というお坊さんがいる。彼は天才的な華道家としてときの天下人・織田信長に才能をみとめられ、信長との謁見の際に出会った茶道の大家・千利休(佐藤浩市)とも親交をふかめていく。しかし、信長が世を去り豊臣秀吉(市川猿之助)の時代になると、おだやかだった専好の身辺がさわがしくなってくる。秀吉と利休の関係が悪化してきたのだ。利休はやがて、自害を命じられて果てる。利休が主君である秀吉との関係に長年苦悩してきたことを知っていた専好は、友の死に心をいためる。だが、秀吉は、利休と親しかった専好のことも気に食わない。専好が民衆を扇動して反乱を企てているのではないかなどとよしないことを考えはじめる。さらに、秀吉は、跡取り息子の急死をきっかけに心のバランスを崩し、いっそう酷薄な暴君と化していく。自分を悪く言う歌が町に貼りだされたと聞けば 町民をとらえて虐殺、自分を「猿」と からかったといっては、いとけない子どもまでも打ち首にする。千利休の最期と町の人びとの苦しみをまのあたりにした専好は、その心にしずかな怒りの炎を燃やし、やがて秀吉を相手どり「華の道をもって上さまをおいさめする」、「花戦さ」に挑むことを決意する・・・。古い伝説をもとにした・・・と先にのべたがその伝説は京都の池坊頂法寺につたわっているものだそうで、池坊専好(初代)も実在の人物だ。初代専好が信長と秀吉に目通りしたという記録もほんとうに残っていて、千利休とも生きた時代をおなじくしている。だからこの物語はまったくのフィクションてわけじゃない。わたしはこの映画には 深みとか隠喩とか 思考に値するものは ない、と感じた。エピソードの取捨選択とそれぞれの接続、という点でも、不親切なところがすくなくなかった。昨今の時代劇映画の主流らしく、親切設計を旨としているかんじが基本的には非常に強かっただけに、かえってちいさな穴が気になった。はっておいてほしい伏線を変なところで はらないというか、「こんなこともあったよね!」と だいじなところで初見のエピソードをいきなり持ち出すパターンが散見された。「そんなだいじな話あるんだったら前もっていっとけや!」。たとえば みなしごの蓮の話を割愛すれば もっともっとていねいな話運びをすることは十分可能だったろう。ただ、配置や接続の問題はおいてもひとつひとつのエピソードは、とても誠実に描かれたものであったしどの話も わたしはすきだった。とくに、序盤も序盤だが、専好と利休の、草庵の場面がよかった。じつをいうとわたしはちょっと泣いた。なんだかとても、ふたりのことが いとおしくて。専好は、じつに変わってる。心が純で、悪い男じゃないが、病的といっていいほど、人の顔と名前、約束ごとが覚えられない。だいじな用事も約束も三歩 歩けばわすれ、別のことに気をとられて、心がそっちに飛んでいく。まわりの理解があるからまだいいが、彼ひとりでは、社会生活にも難儀する。現代でも、身近にいられたら、正直 かなり困るタイプだ。それなのに、彼ははやくから、寺をとりしきる役目なんかをまかされてしまう。順当にいけば そうした役目に適任のはずの者はほかにいたのだがその人たちがみんなたまたま病気になったり都合がつかなくなったりで、彼におはちが回ってきたのだ。でも、要人と会見してそつなく談笑・・といったような大人の実務が壊滅的に苦手な専好にとっては、寺の顔役なんて役目は つらいだけだ。専好はただ日々 仏さまを拝み、町の人たちといっしょにお花をやっていたいだけ。そんな つつましくもおだやかな生活がままならなくなったことに、専好は悩んでいる。千利休の草庵の場面が、そんな専好の悩みを晴らすおおきな転機として描かれていて、とってもいい。専好は、利休がたてたお茶に深くいやされ、吐き出すように 悩みをかたりだす。じつはふたりがまともに会って話すのはこの日がはじめてなのだが幼児のごとくおのれのダメさをさらけだし、男泣きに泣く専好を、利休は「な、もう一服やってくか、な・・・」とやさしく受けとめる。利休は利休で、このころにはすでに 秀吉による偏執的いじめに悩むようになってきていた。相手が天下人なだけにさからうこともできず、やりばのないストレスに苦しみ、でもそれだからこそ人の心の痛みがわかる利休そんな人物像を 佐藤浩市がうまく演じて表現していた。あの「目が笑ってない」かんじがとてもよかった。わたしは佐藤浩市にはメンタルがささくれてそう、みたいなイメージをもっているので、佐藤浩市が千利休!?と 配役を知ったときにはおもったのだが、メンタルささくれ感が、かえってよかったみたいだ。専好を演じた野村萬斎は 偉大。専好があまりにも先述したように忘れっぽく、社交ベタ、ぶっとんだかんじの人物で、みていてイライラさせられたほどだったが、そんなふうに観る者に思わせる演技ができるなんて、すごい。声の高低差やしゃべるスピード、視線などをコントロールすることで、専好の性格やオン・オフのモード切り替えをくっきりと表現していておそろしい役者さんだとおもわされた。豊臣秀吉役の市川猿之助は、多面的で分裂ぎみな秀吉の人物像をまじめに引き出そうとしていた。こういう男だったろうな、という、納得感があった。欲をいえば、もうちょっとエキセントリックでもよかった。信長の御前で平気で耳をほじったりする「猿」なかんじを、えらくなってもひきずっててほしかった。ただ、利休に対したときの、キモチ悪い「男のいじめ」の表現はすごくうまかった。千利休と秀吉の関係については いろんな本で読んできて、わたしも知らないわけじゃないけど、いまだに、いったいあれはなんだったのか、とおもう。女よりも男のいじめのほうが、陰湿でたちがわるいとは聞くけど。石田三成役の吉田栄作は、秀吉の腰巾着キャラをうまくこなしてた。彼はかつてはもっとカッコイイ、イケメン俳優の部類だったとおもうが、歳をかさねて しわができ、ちょっとかわいてやつれた顔を堂々と見せていて、尊敬した。それがすごくかっこよかったのだ。専好が秀吉にしかけた「花戦さ」が、この映画のまさにクライマックス。冗長だったような気もするが、専好が披露した大作は華やかでうつくしく、場面は緊張感にあふれ、なかなか。それにしても、花の背後にかけられた絵はどこからもってきたのか・・・秀吉がコレクションしてたらしい「むじんさい(無尽斎?)」の絵だ。モデルは長谷川等伯の、あのおさるの絵だと考えてまちがいないとおもうが。あのかわいいやつ。 そうならば、前田利家かだれかにたのんで、所蔵品をかりたという設定なんだろうか。でも利家の持ち物だとしたら、秀吉に奪われずに隠しておけたのもおかしいような気もするが。秀吉は執着していたから。「むじんさい(無尽斎?)」の作品に。ああいう画題の絵だと知ったら「だれがいるかこんなもん」とは言ったかもしれないが、画題をしってたらしってたで今度は、怒って利家を殺さなかった(または絵を棄てさせなかった)その理由がわからない、ということになる。ネットでしらべたかぎり、長谷川等伯のおさるの絵は「前田利家の息子の持ち物だった」らしい。利家の所蔵品という設定なんだろうが。どうせなら、蓮にあの絵を描かせた、という設定にしてもよかったのに。・・・ダメか(^^)。それにしても「花戦さ」の場面は、まあやっぱり、くさっても秀吉が「良いものは良い」とちゃんと言えるだけの見識を持つ男だったからよかった、ということなのだ。秀吉はときの最高権力者だ。専好を殺すことはいつでもできた。でもそれをしなかったところが秀吉なんであり、あのときはそういうときだったのだ。専好をふつうに斬り殺して、そのあと秀吉が号泣、でもよかったとおもうが。・・・ダメか(^^)。跡取り息子をなくして失意の底にあった秀吉に「あやまちをおいさめする」なんて一介の花坊主の趣向が通じるのか、ともおもったが、心がへこんでいるときだからこそかえって人のきびしい意見がすんなり耳にはいってくる、ということもあるだろうから、それを考えるとかえってアリなタイミングだったのかも。本作は、野村萬斎と市川猿之助、つまり狂言と歌舞伎のトップスターの演技合戦がみたい人には それだけでもかなり 価値ある映画。ただ、お茶やお花が「趣味」「たしなみ」ではなく、「人生」「闘い」であったという歴史的大前提を理解してないと、この映画はちょっと、わけわからんだろう。だからそこは雰囲気だけでも把握しておくことをおすすめしたい。, 観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。, york8188さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 「むじんさい(無尽斎?)」の絵だ。 モデルは長谷川等伯の、 あのおさるの絵だと考えて まちがいないとおもうが。 あのかわいいやつ。 そうならば、 前田利家かだれかにたのんで、 所蔵品をかりたという設定なんだろうか。 でも利家の持ち物だとしたら、 京都に来て、すごく集中して撮影に臨めたと思います。これまでおしゃべりな役が多かったのですが、今回は表情のお芝居で勝負するのがすごく楽しみでした。なるべくちょっとした表情や目の演技で表現するようにしました。大先輩方に囲まれて、とても不安ではありましたが、実際現場に来たら楽し … 長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。, 能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。, 天文8年(1539年)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に能登国の戦国大名・畠山氏に仕える下級家臣の奥村文之丞宗道の子として生まれる[1]。幼名を又四郎、のち帯刀と称した。幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を介して、同じ染物屋を営む長谷川宗清(宗浄)の養子となった。宗清は雪舟の弟子である等春[注釈 1]の門人として仏画などを描き、養祖父や養父の仏画作品も現存している。等伯は等春から直接絵を習ったことはないと考えられるが、『等伯画説』の画系図では自分の師と位置づけており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春から取ったものと考えられる。, 等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。当時は長谷川信春と名乗っていた。現在確認されている最初期の作は、永禄7年(1564年)26歳筆の落款のあるものだが、その完成度は極めて高い。この時代の作品に、生家の菩提寺である本延寺に彩色寄進した木造『日蓮上人坐像』(1564年、本延寺蔵)[3]、『十二天図』(1564年、正覚寺蔵)、『涅槃図』(1568年、妙成寺蔵)などがあり、現在能登を中心に石川県・富山県などで10数点が確認されている。, 当時の七尾は畠山氏の庇護のもと「小京都」と呼ばれるほど栄え、等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。等伯は何度か京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んでいたと考えられる。, 元亀2年(1571年)等伯33歳の頃、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛[注釈 2]、郷里の菩提寺・本延寺の本山本法寺を頼り、そこの塔頭教行院に寄宿した。翌元亀3年(1572年)には、この年に30歳で死去した本法寺八世住職日堯の肖像画『日堯上人像』を描いている。, 天正17年(1589年)まで等伯に関する史料は残っていないが、最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た[5]。それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していったのもこの頃である。この頃も信春号を用いており、『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)、『武田信玄像』(成慶院蔵)、『伝名和長年像』(東京国立博物館蔵)など優れた作品を残しており、天正11年(1583年)には大徳寺頭塔である総見院に『山水、猿猴、芦雁図』(現存せず)を描いたという記録が残っており、利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという[6]。天正14年(1586年)、豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している[7]。『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。『本朝画史』は1世紀後の、等伯のライバルだった狩野派の著作なので、信憑性にやや疑問が残るが、これが江戸時代における一般的な等伯に対する見方であった。, 天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された[8]。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。, 等伯は私生活では不幸もあったが、絵師としては順調であった。慶長4年(1599年)本法寺寄進の『涅槃図』以降、「自雪舟五代」を落款に冠しており、自身を雪舟から5代目にあたると標榜した。雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯と、当時評価が上がりつつあった雪舟の名を全面に押し出しつつ、間に祖父と父の名を加え、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言する。これが功を奏し、法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により慶長9年(1604年)に法橋に叙せられ、その礼に屏風一双などを宮中へ献上した[6]。この年の暮れ、本法寺天井画制作中に高所から転落し、利き腕である右手の自由を失ったと言われるが[9]、その後の作が残っていることからある程度は治ったものと考えられる。慶長10年(1605年)には法眼に叙せられ、この年に本法寺客殿や仁王門の建立施主となるなど多くのものを寄進、等伯は本法寺の大檀越となり、単なる町絵師ではなく、町衆として京都における有力者となった。, 晩年の等伯に関する記事が、沢庵宗彭の『結縄録』にみえる。ある人が、じかに虎を見たことがある誰それほど上手に虎を描く者はいないだろうと述べると、等伯は自分の左手を見ながら右手で絵を描いても、絵が下手では上手く描けないように、実際に見た見ないは絵の上手下手とは関係ない、と反論する。沢庵は、さほど賢そうな老人には見えないけれども、画道に心を尽くした人の発言だけあると感心しており、文章の生々しさから実際に等伯に会って書いたであろうこの逸話からは、生涯を絵に捧げた等伯の愚直な姿を彷彿とさせる。, 慶長15年(1610年)、徳川家康の要請により次男・長谷川宗宅を伴って江戸に下向するが旅中で発病、江戸到着後2日目にして病死した。享年72。戒名は厳浄院等伯日妙大居士。遺骨は京都に移され、本法寺に葬られた。その後、墓所が所在不明となり、平成14年(2002年)に新しく建てられた。, 長谷川派は、等伯を始祖とする桃山時代から江戸時代初期にかけての漢画系の画派である。等伯には久蔵、宗宅、左近、宗也の4人の子がおり、そのうち久蔵は等伯に勝るほどの腕前を持っていたが26歳で早世し、宗宅が一時家督を継いだ。宗宅は法橋に叙せられて『秋草図屏風』(南禅寺蔵)などを描いたが、等伯が亡くなった翌年に没した[10]。その次に家督を継いだ左近は、自らを等伯に次いで「雪舟六代」と称したが、等伯の画風を受け継ぎながらも俵屋宗達風の装飾性を増した作品も残している。宗也は4人の中で最も長く続いた系統で、『柳橋水車図屏風』[11](群馬県立近代美術館蔵)、八坂神社扁額の『大黒布袋角力図絵馬』などを描いたが、技量は他の兄弟たちより劣っていた[12]。弟子には他に、等伯の女婿となった等秀や伊達政宗に重用された等胤、ほか等誉、等仁、宗圜ら多数がいた。等伯時代の長谷川派は狩野派よりも色彩感覚に優れ、斬新な意匠を特徴としたが、等伯没後は優れた画家が出なかった[10]。, 『等伯画説』(とうはくがせつ、本法寺蔵、重要文化財)は、等伯が先代の画家や鑑賞方式などについて語ったことを、本法寺十世住職で等伯と親交があった日通が筆録した画論である。成立は文禄1年(1592年)前後と考えられている[13]。最初に明兆、如拙以下の漢画の系譜を記し、雪舟ら日本の絵師について触れつつも、大半は南宋や元時代の絵の主題とその画家たちの内容で占められている。画論としては日本最古のものとして歴史的にも貴重である。, 現在確認される長谷川等伯の作品は80点余りで、その多くが重要文化財に、一部は国宝に指定されている。途中記録がない時期を挟むものの、その画業をほぼ追うことが出来る。金碧障壁画制作のかたわら、中国・宋元の風を承けた水墨の作品もよくした。特に牧谿の『観音猿鶴図』(国宝、大徳寺蔵)の影響が強く、その筆法を会得するまで何度も繰り返し描いている。牧谿と比べると等伯の技術は明らかに劣っているが、等伯はその未熟さをむしろ逆手に取り、絵のモチーフに共感を抱かせ、鑑賞者に感情移入を促す情感表現を志した。代表作『松林図屏風』もその延長上に位置し、その主題が最も成功した作品といえよう。国宝または重要文化財に指定された作品は太字で表記する。, 平成7年(1995年)、七尾駅前と本法寺に故郷を旅立とうとする等伯の銅像「青雲」[注釈 3]が建てられた。, 2010年から没後400年を記念し、北國新聞は石川県七尾美術館と七尾市の協力で「長谷川等伯ふるさと調査」を行った。その調査で珠洲市の本住寺に、27歳頃に描いたとされる日蓮の肖像画が見つかり、氷見市の蓮乗寺にある『宝塔絵曼荼羅』が等伯と養父の宗清による、父子合作であることなどが分かった。さらに没後400年を記念して七尾市のマスコットキャラクター「とうはくん」が誕生した[17]。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=長谷川等伯&oldid=79005626, 展覧会図録 『没後400年 長谷川等伯』 東京国立博物館2010年2-3月、京都国立博物館4-5月, 『月刊 美術の窓No.318 戦国絵師 長谷川等伯 絵筆で天下を獲る!