奥州藤原氏の初代・藤原清衡、二代目・藤原基衡、三代目・藤原秀衡、そして四代目・藤原泰衡です(このうち泰衡の遺体に関しては頭部のみ)。, 1950年と1994年、それぞれの遺体が調査されます。この記事では、その遺体調査の結果、奥州藤原氏に関して何がわかったのかご紹介します。. ID: eun7z13PaN, https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E8%A1%A1, 推奨環境:Edge, Safari, Chrome, Firefox, Opera いずれかの最新版, 『先生を消す方程式。』“義澤”田中圭、“筋トレ”シーンにネット歓喜「良い筋肉! 奥州藤原氏四代泰衡は、藤原氏を滅亡させたダメ男だと、『吾妻鏡』などでは描写されています。本当に泰衡は小心で、武家の棟梁の器など、なかったのでしょうか。考えてたいと思います 文治五年(1189年)9月3日に滅亡した奥州藤原氏と藤原泰衡。. 『オヤジが美少女になってた話』作者がヘアドネーション体験マンガを発表. そもそも義経が奥州へ逃げたのは、頼朝と合流する以前の青年期、奥州藤原氏を頼って平泉に住んでいたことがあったからです。, 義経はここで当主・藤原秀衡(ひでひら)の支援を受け、家臣や馬などをもらったりしました。, 秀衡は頼朝から「京都に金(きん)や馬を送るときは、オレが仲介してやろう」という不躾な申し出を聞いており、心情的に鎌倉へは良い印象を持っておりません。, 当時の奥州は半ば独立国ですから、それを率いている身としては面白いワケがありません。, そこへ「息子」だった義経が頼朝から追われて亡命してきたので、いよいよ「その時」だと考え義経をかくまったのです。, 長男の国衡(くにひら)もいましたが、側室の生まれだったため正室から生まれた次男が優先されました。, 一度は父親の方針通り義経を庇おうとした泰衡は、鎌倉からのプレッシャーに対し、徐々に耐え切れなくなっていきます。, 「父上は義経を助けろって言ってたけど、アイツは所詮よそ者じゃないか! アイツのせいでうちが滅びるぐらいなら、先に討ち取って頼朝の機嫌を取ったほうが良いに決まってる!」, 我が身可愛さしか頭のないこの振る舞いに、藤原国衡と三男・藤原忠衡(ただひら)は唖然。, 「いやいや、父上の遺言はきちんと守るべきでしょ! うちを信用して頼ってきたような人を討ち取るとかアンタ正気か! この親不孝者!!」, その足で「もう義経はいないし、お前の居場所もねーから!」と忠衡まで討ち取ってしまうのでした。. All Rights Reserved. この源氏兄弟の対立と深く結びついています。 文治五年(1189年)9月3日に滅亡した奥州藤原氏と藤原泰衡。. 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku. 【4代目】藤原泰衡. まずは、奥州藤原氏の歴史を簡単に。 そもそも、奥州(東北地方)は当初は蝦夷が支配する土地でした。それが1000年代に起こった前九年の役・後三年の役という東北地方の戦乱によって、藤原清衡という人物がその支配圏を手中に収めることになったのです。 詳しい経過は上の記事で解説してますので、この記事では概要だけおさらいします。 源義経が兄の源頼朝とケンカし、逆らったために殺されたという話は有名ですよね。. 1189年に源頼朝によって藤原泰衡が滅ぼされるまで平泉を中心に東北地方に勢力を持っていた豪族でした。, 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とは平将門を討伐した人物で、またの名を俵藤太(たわらのとうた)と呼ばれました。, そうであれば、奥州藤原氏は中央藤原氏と繋がっていると言えますが、その真偽を判断する材料はありません。, その経清は前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)に反旗を翻し、安倍氏に味方しましたが、1062年厨川(くりやがわ)の戦いで敗れました。, 7歳の息子・清衡は、処刑されるところを、母である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)が敵将である清原武則(きよはらのたけのり)の長男・清原武貞(たけさだ)に嫁ぎ、彼の養子となって助かりました。, 清衡の家族構成は以前の敵が混じった複雑なものになり、清衡は義兄や異父弟らと1083年に始まった後三年の役で争います。, 奥州藤原氏初代当主・藤原清衡に続いたのは、長男の惟常との後継者争いに勝利した二男の基衡です。, 秀衡は仏教文化を誇る大都市・平泉で独自の勢力を持ち、源平の争いにも中立を守って中央から距離を保っていました。, しかし、源平合戦に勝利した源頼朝が秀衡の財力に目をつけてその配下にしようとします。, しかし秀衡の死後、4代目当主・泰衡は、頼朝からの執拗な圧力に屈し、義経を襲撃して自害へ追いやりました。, また、娘の乙和子姫(おつわこひめ)は源義経の従者となった佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の父となる佐藤基治(もとはる)の後妻に入り、その子孫が全国的な「佐藤」という姓の源の一つであると考えられています。, 3代目の秀衡の血統では、彼の6人の息子たちは、そのほとんどが早くに戦死したか不明です。, しかし、秀衡の息子忠衡には生存説もあり、彼の三男・助衡が武蔵国で「武蔵国の藤原氏」として「武藤」を名乗ったとも岩手の下閉伊郡野田村で「中野」氏を称したとも言われます。, 泰衡の息子・泰高の子孫については1377年に瀬戸内海の因島に移り住み、「巻幡(まきはた)」という姓を名乗ったという伝承があります。, 歴史の中における「藤原氏」として気になるのは、あの朝廷の中心で活躍した藤原道長に繋がる藤原氏と奥州藤原氏が関係するのかどうか、ということです。, 近年の研究では、『造興福寺記』という五位以上の地位にある藤原氏の名前の記録に藤原清衡の父・経清の名前が確認されています。, 道長との血のつながりは不明ですが、中央の藤原氏からもその一族の者であるとは認められていたようです。, さらに、中尊寺金色堂に保存されていた奥州藤原氏の遺体計測により、身体的特徴として彼らは東北人というよりは京都人であったと考えられています。, ② 清衡を初代当主とした奥州藤原氏の系譜は4代目の泰衡の代に源頼朝によって終了した, ③ 現代につながる藤原清衡の明白な直系子孫は不明だが、「佐藤」「武藤」「中野」など現代でも耳慣れた姓が奥州藤原氏に関わる可能性はある, 奥州藤原氏の血筋であるという言い伝えのある家系もありますが、残念ながら以前あった記録が散逸するなどして客観的な判断ができません。, 藤原清衡の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。 奥州の藤原氏は血縁的なことだけではなく、文化的にも京都の最新の貴族文化を積極的に採り入れていて、奥州藤原氏は東北地方に“首都京都に勝るとも劣らない貴族文化”を花咲かせた。, 東北地方北部(現在の青森県・岩手県・秋田県)は東北地方南部(現在の宮城県・山形県・福島県)とは異なり、弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどった。東北地方のは中央政権の支配が及んでいない地方王国が存在していたが、“東北地方最大の平野”である仙台平野を支配する地方王国が朝廷に服属すると、宮城県仙台市に陸奥国の国府である郡山城(郡山遺跡)が造られ、郡山城には鎮守府もつくられたとみられる。陸奥国は全国の国の中で“最上位の国力と地位”をもつ大国であり、更に面積においても他国を圧倒する“日本最大の国”だった。のちに陸奥国から全国で第2ランクの国である中国の出羽国が、陸奥国から分離してつくられた。その後、陸奥国の国府と鎮守府は同じ宮城県の多賀城(多賀城市)に移転し、のちに仙台市には陸奥国分寺と陸奥国分尼寺がつくられた。この多賀城の時代に、朝廷による北日本の征服政策が推進された。朝廷からエミシ(蝦夷)と呼ばれた北日本に住む地方王国の住民は、陸奥国府の多賀城軍(朝廷軍)に降伏すると俘囚(降伏エミシ)として差別された。 長男・国衡は妾腹の子であったために「父太郎」「他腹之嫡男」と呼ばれていたのに対し、正室を母に持つ泰衡は「母太郎」「当腹太郎」と称され、生まれながらに嫡子として扱われた。 奥州藤原氏の初代。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 東北一帯を支配していた豪族、奥州藤原氏第四代にして最後の当主である。, 生年は定かではなく、久寿2年(1155年)あるいは長寛3年(1165年)、三代当主・藤原秀衡の次男として生まれる。 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。 前九年の役は源義家の野望によって起きた戦いであり、戦いに勝てたのも清原氏のおかげだったた。そのため清原光頼の代理人である光頼の弟,清原武則は、関白・藤原頼通から“エミシとして初めて”鎮守府将軍に任命され、源義頼は空しく東北地方から去って行った。, この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死して安倍氏は滅亡したが、頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・藤原経清に嫁ぎ男子をもうけていた。経清は安倍氏側の中核にあり、前九年の役の終結に際し頼義に捕らわれ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなり、これにともない安倍頼時の外孫である経清の息子もまた武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。, 永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡、そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあっていったんは清原氏の内紛は収まることになった。ところが義家の裁定によって清原氏の所領だった奥六郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。, 真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。, 清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。その後、朝廷内部で源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったという事情もあったが、それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。[要出典]奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。, そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立することになる。, また、清衡の子基衡は、院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結ぶ方針をとった。基衡は、基成の娘を後継者の3代目秀衡の嫁に迎え入れ、院へも影響を及ぼした。その後下向する国司はほとんどが基成の近親者で、基成と基衡が院へ強い運動を仕掛けたことが推測される。[要出典], 奥州藤原氏が築いた独自政権の仕組みは鎌倉幕府に影響を与えたとする解釈もある。[要出典], 清衡は陸奥押領使に、基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、秀衡は鎮守府将軍に、泰衡は出羽、陸奥押領使であり押領使を世襲することで軍事指揮権を公的に行使することが認められ、それが奥州藤原氏の支配原理となっていた。また、奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようである。奥州藤原氏滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書の写しが多数あったという。本来これらは国衙にあるもので、平泉が国衙に準ずる行政都市でもあったことがうかがえる。[要出典], 一方で出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領使としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もある[4]。特に出羽北部には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとする説がある[5]。, その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていたようである。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏による十三湊大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいる。[要出典], 永久5年(1117年)に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍(がらん)と庭園の規模は京のそれをしのいだといわれている。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽法皇が京都の外へ持ち出すことを禁じてしまう。これを聞いた基衡は七日七晩持仏堂にとじ籠って祈り、関白藤原忠通に取り成してもらい法皇の許しを得て、ようやく安置することができたという[注釈 2]。, 天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。[要出典], 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年にわたって繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。, この平泉文化は現代でも大阪商工会議所会頭による東北熊襲発言に際して、国会で東北地方の文化の象徴として引き合いにだされている[6]。, 平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山は北から、八針(岩手県気仙郡)、今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)だったといわれ、平泉から東方に位置する三陸海岸沿岸に並んでいる。, 秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。, 秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。, しかし、関東の後背に長年独自政権を敷いてきた勢力があることを恐れた源頼朝は同文治5年(1189年)7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。, 平家滅亡により源氏の勢力が強くなったこと、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立したことなどにより中立を維持できなくなったことが滅亡の原因となった。, 清衡の四男・藤原清綱(亘理権十郎)は当初亘理郡中嶋舘に居城し以後平泉へ移りその子の代には紫波郡日詰の樋爪(比爪)館に居を構え樋爪氏を名乗り樋爪俊衡と称している。奥州合戦では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏したが、当主・俊衡らは陣ヶ岡の頼朝の陣に出頭し降伏した。頼朝の尋問に対し法華経を一心に唱え一言も発せず命を差し出したので、老齢のことでもありその態度を是とした頼朝は樋爪氏の所領を安堵した。しかし、その後歴史の表舞台から消えた。子や弟も相模国他へ配流された。経清(亘理権大夫)以来代々の所領地曰理郷(亘理郡)も清綱(亘理権十郎)の没落とともに頼朝の幕僚・千葉胤盛の支配する所となった。, 清衡の養娘の徳姫は、岩城則道(岩城氏の祖)に嫁し白水阿弥陀堂(いわき市)を建立した。, 清綱の息女の乙和子姫は、信夫荘司佐藤基治に嫁し佐藤継信・佐藤忠信兄弟(義経の臣)の母親として信夫郡大鳥城(福島市飯坂温泉付近・現在舘の山公園)に居城した。全国佐藤姓の源の一つとなった。, 藤原秀衡の四男高衡は、投降後相模国に流罪となった。後に赦免され、しばらくは鎌倉幕府の客将のような存在であったといわれるが、正治3年(1201年)、城長茂らが幕府転覆を図った建仁の乱において、謀叛の一味に加わり幕府の追っ手によって討ち取られた。, 藤原秀衡の弟藤原秀栄は分家して十三湊に住み、十三氏(十三藤原氏)を名乗った。十三氏は鎌倉時代も残り、十三秀直の代の(寛喜元年)1229年に安東氏に滅ぼされるまで続いた。, それより大きいのは当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことと思われる。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=奥州藤原氏&oldid=80410530.