ID: F3SO8W/aaJ, 2019/04/19(金) 01:18:11 関連記事 >>>> 「木曽義仲とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」. 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 平安後期の武将。通称を木曽冠者(きそかんじゃ)、木曽義仲という。清和(せいわ)源氏の嫡流源為義(ためよし)の次子義賢(よしかた)の次男として1154年(久寿1)東国に生まれた。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によれば母は遊女。翌年、義賢は兄義朝(よしとも)の長子義平(よしひら)に武蔵(むさし)国比企(ひき)郡の大倉(おおくら)館に襲われて討ち死にし、義仲は孤児となったが、斎藤別当実盛(べっとうさねもり)らの計らいで義仲の乳母(めのと)の夫である信濃(しなの)の土豪中原兼遠(かねとお)にかくまわれた。木曽の山中で成人した義仲は、27歳の80年(治承4)以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)を受け、源頼朝(よりとも)の約1か月のち平氏討伐の旗を木曽谷にあげた。年内に信濃を手中にして亡父の故地上野(こうずけ)まで進出、翌81年(養和1)平氏側の越後(えちご)の城助茂(じょうすけもち)の大軍を千曲(ちくま)川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れた。その後、東国を支配下に置いた頼朝と対立したが、83年(寿永2)3月長子義高(よしたか)を鎌倉に送って頼朝と和睦(わぼく)、5月に北陸道を進攻してきた平維盛(これもり)らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅(くりから)峠に夜襲をかけて大破し、続く安宅(あたか)・篠原(しのはら)の戦いにも連勝、北陸を支配下に収め、7月には比叡(ひえい)山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛(じょうらく)を果たした。後白河(ごしらかわ)法皇はただちに義仲を無位無冠から従(じゅ)五位下左馬頭(さまのかみ)兼越後守(えちごのかみ)ついで伊予守に任じたが、上洛軍の軍紀の乱れと、彼の公家(くげ)社会への無知や有能な顧問がいなかったことからくる政治力の欠如によって、入京後の義仲の評価は下がり、頼朝の上洛を望む空気が院中に強まった。西下した平氏を追討する戦いも10月に備中水島(びっちゅうみずしま)で敗れ、帰洛してから院の反義仲色は露骨となり、ついに義仲はクーデターで院の近臣を追放して独裁権を握り、84年(元暦1)正月に従四位下征夷(せいい)大将軍となり「旭(あさひ)将軍」と称された。しかしそれもつかのまで、前年末に頼朝の代官として鎌倉を進発していた源範頼(のりより)・義経(よしつね)の軍に敗れ、1月20日北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津(あわづ)で31歳で討ち死にした。, 東国のように源氏の地盤でない木曽谷で兵をあげ、小武士団からなる北陸を勢力圏としていたにもかかわらず、全盛を誇っていた平氏政権をわずか3年足らずで打倒した武略は、義仲が第一流の武将であったことを示す。しかし乳兄弟の今井兼平(かねひら)・樋口兼光(ひぐちかねみつ)のような勇武な部将はいたが、大夫房覚明(たゆうぼうかくみょう)以外に有能な政治顧問のいなかったのが致命的弱点であった。その覚明も入京後は義仲から離れ、信州武士の習いを公家社会で通そうとしたのみならず、安徳(あんとく)天皇西下後の皇位継承に、以仁王の皇子北陸宮(ほくろくのみや)を強引に推したのが、公家を決定的に反義仲に追いやった。情に厚い武将であったが、武士社会のなかに強い地盤を築く余裕もなく没落していかざるをえなかったのである。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …平安時代には立山が霊山として信仰され多くの参詣者がここを訪れた。【鎌田 元一】【中世】[鎌倉時代] 1180年(治承4)信濃に挙兵した源義仲が翌年平氏方の越後の城氏を破ると,宮崎党や石黒党など越中の有力武士団は義仲に味方するようになった。義仲はこれら在地武士に対して本領安堵策をとり,その支援をえて83年(寿永2)5月俱利伽羅峠の戦で平氏軍を破り,一挙に上洛した。…, …のち平家に属し,富士川の戦(1180)では東国の案内者として平氏軍に加わって東下したといわれる。1183年源義仲追討のため北陸に下ったが,加賀篠原で手塚光盛に討たれた。享年50余歳とも60余歳とも,また70余歳ともいう。…, …おりからの凶作と飢饉は西日本にひどく,81年(養和1)閏2月総帥清盛を失った平氏一門の戦意は衰えるばかりだった。 一方,北陸道方面では,信濃国に挙兵した源義仲がたちまち同方面を制圧し,81年秋には越前で平氏軍とにらみ合う状況を示していた。翌年は全国的に戦線が停滞したが,83年(寿永2)5月平維盛軍を加越国境の砺波(となみ)山で撃破(俱利伽羅峠の戦)した義仲軍は,7月末入京し,宗盛以下平氏一門は幼少の安徳天皇,三種神器を奉じて西海に落ちた。…, … 平安末期には,源平争乱の中で征夷大将軍の称が復活し,しかも従来とは違った意味をもつようになった。平氏を破って上洛した源義仲は後白河法皇と対立,法皇を幽閉し,その院政を停めて政治を独裁したが,その中で1184年(元暦1)征夷大将軍に任じられた。これは義仲が源頼朝と対立し,頼朝を討つため東国における追討権を得たもので,蝦夷征討とは関係なく,むしろ忠文の征東大将軍に通ずる性格をもっている(このとき義仲は征夷大将軍でなく,征東大将軍に任じられたとする説もある)。…, …駒ヶ岳北西麓に発して木曾川に注ぐ正沢川の下流には木曾駒高原が広がり,ゴルフ場,スケート場,別荘地などがあり,観光開発が進められている。村名の日義は朝日将軍源義仲にちなむもので,義仲が旗揚げしたところといわれる旗上八幡宮や菩提寺の徳音寺,義仲の資料を展示した義仲館などがある。中央本線,国道19号線が通じる。…, …同年5月に挙兵した以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を諸国源氏に伝え,挙兵を促したといわれる。源頼朝にいれられず,源義仲と結んで83年(寿永2)平氏西走後の京都に入り,従五位下備後守に任叙され,数日後備前守に遷任した。この際,勲功賞が義仲の従五位上左馬頭(さまのかみ)兼越後守に劣るとして忿怒し,閉門辞退したと《玉葉》に記されている。….
明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku. ID: 69j0z7tWYg, 2018/05/02(水) 22:03:11 源満快 満国: 行頼: 頼季 為満: 景行: 行広 為公 為衡: 為扶 [信濃村上氏] 為邦 [依田氏] 依田為実 [片切氏] 為基: 為氏 為貞: 公家: 公扶: 国高: 実信: 為行: 為広 中津頼継: 伊那快実: 林快次 [夏目氏] 夏目國忠: 信行: 飯沼行俊: 片切為重: 行心: 飯島為綱: 片切景重: 大島宗綱 手塚信澄: � (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); ©Copyright2020 歴史上の人物.com.All Rights Reserved. 木曽義仲と源頼朝・源義経たちの生き方 about ... 水野勝成 2020.11.6 破天荒武将 水野勝成の家系図・子孫・家紋が語る華麗な事実 【麒麟がくる】感想・あらすじまとめ 2020.11.2 麒麟がくる第三十回「朝倉義景を討て|幕臣光秀が信長軍に参加? 気になる人物をここから検索. 歴史ライター、商業コピーライター ID: BZvDGKmLO4, https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2, 推奨環境:Edge, Safari, Chrome, Firefox, Opera いずれかの最新版, 『先生を消す方程式。』“義澤”田中圭、“筋トレ”シーンにネット歓喜「良い筋肉! 生まれた翌年に、父である義賢が大蔵合戦で敗死し、信濃(現在の長野県)の中原兼遠に保護され、信濃の木曽谷の木曽山下で成長します。, ここから始まる動乱に身を投じた義仲は、源頼朝、平氏と全国を三分する大人物となっていきます。, 以仁王の令旨が下されると、各地で武士たちが立ち上がり始め、治承・寿永の内乱が始まります。, 当時、義仲には、養父・中原兼遠の息子たちや、亡き父・義賢の郎党(従者)など、支持勢力がありました。, これによって義仲は、以仁王と源頼政の遺志を継ぐ存在として、皇位継承戦争へと加わることになります。, 安徳天皇を擁する平氏と、後鳥羽天皇を即位させたい後白河院、そして北陸宮を奉じて戦ってきた義仲。, 篠原合戦に勝利し、義仲が京都を包囲すると、平氏一門は京都に留まることを諦め、福原へ退きます。, こうして、全国は西に平氏、東に頼朝、都に義仲と三分し、「三国史の如し」と表される情勢となります。, そんな中、平氏政権時からの都の食糧危機に加え、義仲の軍勢の乱れによる都の治安の悪化が起こります。, 義仲は征夷大将軍に任ぜられますが、もはや後白河院との対立はどうにもならず、頼朝との対決を避けられなくなります。, そして、頼朝から命令を受けた源範頼、源義経の上洛軍が、1月20日、宇治と瀬田から京都へと攻め込みました。, 人心を失っていた義仲に従う兵はいなくなってしまい、宇治川での戦いで、義仲は敗走を余儀なくされます。, 義仲は今井兼平を始めとする数名の部下と落ち延びますが、近江(滋賀県)の粟津にて敗死します。, 最後まで義仲のもとに残った武士の中心は、挙兵から義仲を支え続けた信濃・上野の武士でした。, ある人たちにとっては粗暴な田舎者だったとしても、また別の人たちにとっては、義仲はカリスマだったのでしょう。.
源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄らはすべて河内源氏の流れをくみます。 河内源氏は関東に勢力を置き、広く発展しました。 傍流として石川源氏・常陸源氏・甲斐源氏・信濃源氏があり、この他庶流として足利氏・新田氏がいます。 ID: ZtFFCEQyC2, 2020/02/15(土) 19:20:28 『オヤジが美少女になってた話』作者がヘアドネーション体験マンガを発表. 源満快流 系図. ID: pdzGvDfKVp, 2018/08/24(金) 17:15:19 ID: 5CHnDX4VXM, 2019/04/19(金) 01:04:45 源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の四男[1]。新田・足利両氏の祖にあたる。足利尊氏と新田義貞は雲孫に当たる。, 源頼信-頼義-義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した[2]。長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢に合わないと義家に判断されて後継者から外されていった。, 叔父義光との抗争(常陸合戦)には敗れ、常陸国は従子でもある佐竹氏の初代当主である佐竹昌義(義光の孫)に譲ることになったが、足利荘を成立させるなど、下野国に着実に勢力を築いていった。晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、荒加賀入道と言われた。, 義国の生年、没年は諸説があって定かではない。通説では、寛治5年(1091年)生まれ、仁平4年(1154年)出家、久寿2年(1155年)6月26日に死去となっている(尊卑分脈)[3]。, 末裔には山名氏、里見氏、桃井氏、石塔氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏(源姓)、斯波氏、一色氏、世良田氏、戸崎氏、岩松氏、最上氏などがある, 久保田順一『中世武士選書18 新田義重 北関東の治承・寿永内乱』戎光祥出版 2013年11月1日, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=源義国&oldid=77345148. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 源義仲の用語解説 - [生]久寿1(1154)[没]寿永3(1184).1.20. 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる[2]。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている[要出典]。, 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。, 河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる[注釈 3]。, 『平家物語』や『源平盛衰記』によれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている。, 『源平盛衰記』によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある[注釈 4]。諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうした事とも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。, 治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。, 木曽義仲は小見「麻績」の戦い合田の戦いに勝利し同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている[注釈 5]。, 翌年の治承5年(1181年)6月、小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。, 寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく。, 平維盛を大将に平家は十万の大軍を率いて北陸へ。越前火打城の戦い 「燧ヶ城」、「三条野の戦い」で勝利した平氏は,加賀「安宅の関」と連戦連勝と破竹の進撃を続け、木曾勢の築いた城を攻め、越前・加賀・越中の木曽軍の城(砦)を攻略し越前、加賀の国も支配し残るは越中のみ。, 木曽義仲の四天王の1人今井兼平は6千の先遣隊を平家 平盛俊の先遣隊が陣を張る般若野を奇襲する(般若野の戦い)。この奇襲が功を奏して平家軍が倶利伽羅峠の西に戻る事になる。, 5月11日、越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月10日には越前国、13日には近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。右筆の大夫房覚明に書かせた諜状(通告文書)の内容は「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆と合戦する事になる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という些か恫喝めいたものだった。7月22日に義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが明らかとなる。また、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫り、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せるようになる。25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。, 7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。義仲は翌日28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた[注釈 6]。

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概要.