記録では、慶長7(1602)年、加賀藩初代藩主の前田利長(としなが)の江戸訪問だろう。2代藩主となる利常(としつね)と2代将軍徳川秀忠の娘、珠姫(たまひめ)との婚姻が決まったお礼参りだとか。また、江戸で暮らし続ける母の芳春院(前田利家の正室、まつ)の見舞いも兼ねてのこと。, 母を人質として江戸に置き、自ら江戸へ参勤する。これが「参勤交代は加賀藩にはじまる」といわれる所以である。, そのため、参勤交代における大名行列については、事細かな規則が設けられている。そのうちの1つが、大名行列の規模、人数である。, 思いのほか、藩主自らが領国と江戸を往復するのは、容易ではない。なんせ、身軽に一人旅というワケにはいかない。命を狙われる危険性を考慮しつつ、世間体という見栄も加味する必要がある。, だからといって、大名行列の人数が多ければよいわけでもない。江戸まで移動する費用は、途方もなく多額。しかも、自費。いくら幕府より献上品の倍返しがなされたとしても、なかなか大幅赤字は免れない。こうした諸問題が複雑に絡み合うのが、参勤交代なのである。 江戸時代、大名らが一定期間、江戸に参勤した「参勤交代」って、マジ、リスペクト。, 現代のように飛行機や新幹線で、ピューと行って帰ってくるというワケにはいかないのだから。事前に行程表を江戸幕府に提出し、宿屋を手配。他の藩とのブッキングも考慮しつつ、多くのルールをクリア。こうして、財政的にも無駄を出さずに、大名行列を遂行する。全ては、将軍との謁見のために。江戸までの長い道のりを移動するのである。, 今回は、そんな参勤交代の裏話をご紹介。 © SHOGAKUKAN INC. 2017-2020 ALL RIGHTS RESERVED. 参勤交代を行う大名は偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられた。 ... 13日 : 2000-4000人: 0 5333両 ... 江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは参勤交代の影響である。 天候で左右されるルートは避けたいもの。ただし、距離で考えれば第1ルートが圧倒的。何のトラブルもなければ12泊13日で江戸に到着する。他のルートに比べても4、5日早く到着できるワケだ。そうそう、トラブルになど見舞われないとたかをくくって、最短距離を狙うのか。それとも石橋を叩いて渡るべきか。, ちなみに、加賀藩前田家は、第1ルートの選択が多かったという。そういう意味では、賭けに出たというべきだろう。 なかでも、加賀百万石と誉れ高い、加賀藩前田家の大名行列を取り上げる。その人数の多さは驚愕。参勤交代制度の変遷と数々のルールにも触れつつ、かかる総額費用を弾き出そうではないか。 スポンサーリンク 私、フリーランスじゃん。, 参考文献 参勤交代が、大名の財政に大きな負担となり、その軍事力を低下させる役割を果した こと、反面、都市や交通が発展する一因となったことは、しばしば指摘されるところ である。しかし、これは、参勤交代の制度がもたらした簄果であって、この制度が設 私が1年前まで住んでいた北海道のとある町。町民の人数は2,700人ほどだった。町民全員でも、加賀藩MAXの大名行列に足りない。衝撃の事実である。加賀藩の大名行列がスゴイのか、町民の数が少ないのか。行列の長さも想像すらできないほど。もう、よく分からんレベルの話である。, 加賀藩前田家における大名行列。 また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 ※この記事に掲載している費用総額は、あくまで資料から計算した推定金額となります。, 「参勤交代制度」は、元和元(1615)年の武家諸法度(ぶけしょはっと)で定められ、寛永12(1635)年の武家諸法度で確立した。, しかし、同じような制度は、じつは、江戸時代以前にも見受けられる。鎌倉時代の「鎌倉大番役(おおばんやく)」と「京都大番役」。どちらも、一定期間、自分の領地を離れて、幕府のある鎌倉か、朝廷のある京都を警備する軍役だ。鎌倉や京都までの移動の経費は御家人持ち。また、警護の期間は鎌倉か京都で暮らしていたため、内容は参勤交代制度と類似していたとも。, その後、室町時代には、新しい制度が確立。3代将軍足利義満の治世以降、各地の「守護(しゅご)」を幕府のある京都に「参勤」させ、定住させたのだ。ここで注意すべきは、江戸時代の参勤交代とは異なり、自国の領地には戻らないというコト。ただ、このシステムは下剋上が起こるきっかけになったとも。なぜなら、守護の代わりに領地を治めた「守護代」が力を持つからだ。結果的に、下剋上を助長させ、戦国の世へと時代を進めることに。, この戦国時代に、破竹の勢いで頭角を現したのが、織田信長。彼も、従属した大名らを自分の元へと参勤させる制度を採用していた。しかし、なにしろ、信長自身が定住しない。このため、想定した制度は定着せぬまま。当の本人は、天下を取る直前で謀反に倒れ自刃。そのあとを引き継いで天下人となったのが、豊臣秀吉である。 加賀藩前田家の懐の凄さを、見せつけられた気がした。, ふと。 参勤交代と大名行列が超わかる! 期間は? 妻子は? 経済的負担は? ... を置いてしまうと、他の御家人(特に北条氏)に潰されかねなかったというマイナス面も影響しています。 ... 2020/11/13 諸家. 加賀藩の大名行列は少なくて2,000人前後! さて、この参勤交代制度。あまり知られてはいないが、じつは「軍役」である。 そのため、参勤交代における大名行列については、事細かな規則が設けられている。そのうちの1つが、大名行列の規模、人数である。 今回は参勤交代について解説していきたいと思います! 参勤交代とは? 参勤交代の目的や費用、かかる日数について 参勤交代は男だけ? 参勤交代を免除される藩もあった? 他にも参勤交代をさぼるとどう … 歌川国芳-「太平記英勇伝-中浦猿吉郎久吉-豊臣秀吉」, 豊臣秀吉の拠点となる「大坂城」、そして京都の「聚楽第(じゅらくだい)」と「伏見城」。秀吉は、臣従した諸大名らの謀反を抑制する策を講じた。妻子らを人質として出させ、大坂城や伏見城の周辺に住まわせることにしたのである。結果的に、諸大名らは自国の領地との間を往復する羽目に。つまり、秀吉の頃には、既に参勤交代のはしりのような制度が存在していたことになる。, そして、秀吉の死後。 現代の「幹事」などへっちゃらじゃないのと思い始めてきた。だって、73もの川をクリアしなくてもよい。当日の変更だってOKなのだ。あの、気の遠くなりそうな行程を思えば。現代の幹事役に就かせて頂けることが、なんだか有難い。, 早速、積極的に幹事に立候補なんてと勢い込んで、気が付いた。 世の中には、「幹事」という役割を颯爽とこなす人たちがいる。なぜ、彼らはあんなにも輝いて見えるのか。もう、眩しすぎるほどの神々しさである。, 私も、かつては教育現場で働いてきた身。組織を円滑に機能させ、人間関係の構築には「懇親会」も必要。参加するたびに、幾度となく、そう言い聞かせてきた。しかし、その「幹事」役が回ってくるとなると、話は別。全然、別。ちょっと億劫、どころの騒ぎではない。, 日時の調整、場所の予約、料理内容から会のコンテンツまで。決定事項は次から次へと湧いて出る。それも、忘年会や新年会など、まだ「日帰り」なら歯を食いしばって耐えられそうだが。「宿泊」となると、様々な……。ああ、あああ。思い出すだけで、トラウマが。, そう考えれば。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 前田家は外様大名(とざま、関ヶ原の戦い以降に臣従した大名)ながらも、官位は「従三位・参議」という高いモノ。その大名行列は、少ない場合で2,000人前後。多いときには4,000人もの人数になったとか。, 2,000人前後って。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 12泊13日で2億4,000万円⁉︎ 前田家の大名行列が費用もスケジュールもヤバい!. のちに、幕府は藩の規模で、参勤交代の大名行列の人数を制限することを定める。具体的には、1万石規模の藩の場合は、騎馬は3~4騎。足軽は20人、人足(荷物の運搬従事者)は30人。つまり、大体50人前後の隊列となるわけである。, もちろん、藩の規模が大きくなるにつれ、人数も増える。5万石だと騎馬7騎、足軽60人、人足100人に。10万石だと騎馬10騎、足軽80人、人足140~150人。つまり、全体で230~240人となるワケだ。ただ、実際に、藩主以外の武将らも、それぞれが家臣を抱えているため、その人数も加算される。結果的に、当初の想定よりも人数は膨れ上がるのだ。, それでは、加賀百万石を擁する加賀藩の場合はどうだったのか。 それほどの大人数が移動する一大イベントならば。かかる費用総額は、一体どれくらいになったのだろうか。下世話な話だが、その内実を知りたいもの。, 現代でも2,000人、4,000人規模で移動する場合、末恐ろしい金額になる。さらに、当時は余計に費用がかかったはず。だって、移動は徒歩。それに荷物も運ばなければならない。移動日数は半端ないほど長くなる。, そもそも、加賀から江戸までのルートは3パターン存在する。第1ルートは、富山県、新潟県まで出てから南下。長野県の追分(おいわけ)より中山道(なかせんどう)を通るもの。総距離は約464.1キロメートルとなる。, 第2ルートは福井県を経て滋賀県へ。岐阜県の垂井(たるい)より中山道を通るもの。総距離は約639.6キロメートルである。そして、第3ルート。先ほどの第2ルートの垂井までは同じ。そこから岐阜県の大垣、愛知県の名古屋を通過して、東海道を通るもの。総距離は約589.9キロメートルである。, 少しでも、移動日数を短くする。これが費用圧縮のカギとなる。距離でいえば圧倒的に第1ルートになるのだろうか。, ただ、判断に迷うのは、大名行列のルート変更は不可というコト。天候やら病気やらでいかようにも自由気ままにチェンジ、なんてことにはならない。半年前から幕府におうかがいを立て、その返答を待ってから、準備にとりかかる。, つまり、幕府から、大名行列の計画の承認を受けたなら。その通りに遂行するしかないのである。こちらの都合など知ったこっちゃない。途中でがけ崩れにあっても、洪水で川が渡れなくても、お構いなし。到着予定日よりも遅れるのは許されたようだが。提出したスケジュールに沿って、杓子定規にそのルートを通らねばならない。これは絶対に守るべきルールの1つ。, となれば。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 徳川家康は覇権確立以降、幕府を創設し、全国統治権に対する倫理的基礎を公的に確定したうえで、法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化した。すなわち、1615年(元和1)大坂落城後、6月には「一国一城令」を発布して、大名の本城を除くすべての支城を破壊させたうえで、翌7月「武家諸法度」を制定・公布した。この元和(げんな)法度は、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、2代将軍秀忠(ひでただ)の名をもって発布したもので、全13か条よりなる。その内容は、大名の教養・品行、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、城郭修理の報告、徒党の禁止、婚姻の許可、参勤作法(さほう)、大名の国政などについて規定した。全体として目新しいものはないが、武家法としての体系を整えながら、違反者に厳しい態度で臨んだところに、その意義があった。, その後、3代将軍家光(いえみつ)の1635年(寛永12)大改訂が行われ、林羅山(はやしらざん)が起草し、家光の承認を得て発布された。この寛永(かんえい)法度は、元和法度が抽象的な原則にとどまったのに対し、より具体的な細目を掲げ、新しい時勢に応ずる幕政の根本原則を確定したところに、その特色があった。大名の参勤交代を制度化し、500石積み以上の大船を禁じ、大名の国政について拘束を加えたことなどは、その現れである。この寛永法度の制定により、法による幕府の大名統制はいっそう強化された。, ついで4代将軍家綱(いえつな)の1663年(寛文3)ふたたび改訂が行われた。この寛文(かんぶん)法度は、新たに耶蘇(やそ)教禁止と不孝者の処罰規定を加えたほかは、ほとんど旧法の辞句の修正にとどまり、殉死の禁令は条外として口上にて発表された。この殉死の禁令は大名証人制の廃止とともに、武断政治より文治政治への政策転換を示している。5代将軍綱吉(つなよし)が1683年(天和3)に発布した天和(てんな)法度は、この文治主義をいっそう顕著に示している。ついで新井白石(あらいはくせき)の改訂になる6代将軍家宣(いえのぶ)の1710年(宝永7)に発布した宝永(ほうえい)法度は、儒教の仁政思想に基づく文治主義の精神を最高に現している。しかるに、8代将軍吉宗(よしむね)は、享保(きょうほう)の改革の一環として、側近政治を否定する一方、1717年(享保2)には宝永法度を退けて、綱吉が制定した天和法度を復活した。以上のように、「武家諸法度」は将軍の代替りごとに必要に応じて改訂され、その意味で幕政の変化を示したが、その後1854年(安政1)に若干の修正が加えられたほかは、まったくこの天和法度が踏襲された。, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …鎖国は貿易管理の意義もあるが,それ以上に在来の宗教,文化とあまりにも異質なキリスト教文明の侵入により幕府の支配の根底がくずされることを防ぐものであり,琉球,朝鮮,オランダ人などの江戸参府の行列は幕府の統治能力を沿道の貴賤に示すデモンストレーションであった。 次に大名に対しては,〈武家諸法度〉などによって参勤と妻子を江戸に住まわせることを強制し,また城をかってに修理することを禁止するなど,規定以上に武力を蓄えることを防止した。さらに婚姻を許可制とするなど相互に同盟して謀反を起こすことのないように統制したほかに,随時に築城や河川の御手伝普請を命じて大名の財力を削減させる措置を講じた。…, …上級武士である大名や中以上の旗本では,婚姻は幕府の統制下に置かれた。1615年(元和1)の武家諸法度では,私に婚姻を結ぶことを禁じ,17年の武家諸法度になると,1万石以上の大名や,旗本のうち近習の物頭は自由に結婚することを禁じて,より範囲を明確にした。これは徒党を結んで幕府に敵対することを防ぐためであった。…, …ここに従来の豊臣系大名による大坂,駿府,江戸各城への参勤形態は消滅し,江戸参勤へと統一される。15年(元和1)大坂夏の陣後の武家諸法度は,その第9条に〈諸大名参覲作法之事〉として,京都二条城ないし伏見城における徳川氏への諸大名の参勤規定を掲げているが,29年(寛永6)の武家諸法度では削除され,事実上隔年の江戸参勤をふまえて,35年6月21日の武家諸法度の第2条において,〈大名小名在江戸交替所相定也,毎歳夏四月中可致参勤〉と定め,大名は毎年4月交代で江戸に参勤することが正式に制度化された。42年には,従来在府中の譜代大名に6月または8月の交代,関東の譜代大名に2月,8月の半年交代,さらに城邑を占める大名には交互の参勤を命じ,ここに参勤交代制は全大名に一般化されるに至った。…, …老中・若年寄・三奉行(寺社・町・勘定)のほか,大目付・巡見使等の職務と権限を定め,評定所(ひようじようしよ)の構成と機能をととのえた。35年武家諸法度を改訂し,諸大名に参勤交代を義務づけ,譜代・外様を問わず大名の格を万石以上と規定するとともに,将軍家の近習(きんじゆう)・物頭(ものがしら)を大名と同列として幕府政治の基礎を固めた。対外的には,長崎の直接掌握を果たした33年から36年にかけて貿易統制とキリシタン禁令を強化し,ついに日本人の海外往来を禁止,39年にはポルトガル船の来航を止め,41年長崎出島にオランダ商館を移して鎖国体制を完成した。…, …ただし藩法という名称は,明治になって用いられたもので,江戸時代には〈家法〉〈国法〉などと呼ばれた。宗門改め,度量衡,交通など江戸幕府の全国的支配権に属することを除けば,藩はかなりの自律を認められ,〈万事江戸之法度の如く,国々所々に於て之を遵行すべし〉(寛永12年武家諸法度)といった限定はあるものの,各藩はそれぞれ別個の藩法を施行した。一方,幕府制定法には,諸大名にも触れ知らせる法と,幕府領のみに発する法とがあった。….