三国志には赤兎馬のようなサラブレッドのような馬も出てきますが、通常の騎馬隊はどのような馬を 使っていたのでしょうか? …続きを読む. さて曹昂は宛城で父・曹操を逃がすために自分の馬を譲って戦死します。 嫡男を失うというのは非常に痛手です。 しかも窮地において父親を逃がした父親思いの曹昂は、義母であった 丁氏 (ていし) ともとても良好な関係を築いていました。そんな忠孝な息子であった曹昂を失ったというのは� (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 正史においても、三国演義においても、最強の武将として描かれている呂布りょふ。中国史上という非常に大きなスパンで見ても、あの【四面楚歌しめんそか】で有名な項羽こううと並び立つ武将と評されているようです。, どうして関羽かんうや張飛ちょうひ、張遼ちょうりょうなどの並み居る有名武将たちを抑えて、呂布だけがここまで別格扱いされているのでしょうか?, 演義において、武将の強さを語る上で何よりも外せないのは一騎打ちでしょう。一騎打ちの強さ=武将の強さ、と置き換えてもいいのではないでしょうか。呂布は討ち取った武将の数でいえば、主人公格である関羽や張飛、趙雲ちょううんといったところに到底及びません。, しかしどんな武将よりもインパクトを残した一戦があります。虎牢関ころうかんの戦いにおいて、関羽と張飛を同時に相手どり、互角に渡り合った場面です。関羽と張飛も生涯において一騎打ちで負けたことがなく、名のある武将に勝ち続けた武将ですが、その二人を同時に相手どる……などという離れ業を見せている呂布は間違いなく最強クラスに強いと言えるでしょう。, 正史においては武将同士の一騎打ちの場面はそれほど多くないので、武将の強さを測るには兵を率いての合戦の戦績を見てみるほかにありませんが、呂布の戦績は決してよいとは言えません。勝ったり負けたりを繰り返し、最後には曹操そうそうによって滅ぼされています。, しかし合戦には兵力差はもちろんですが、誰と組んで誰と敵対するかなどの外交的な駆け引きなども関係くるので単純な戦の強さ・上手さを判断することは難しいです。, 例えば呂布の最後の戦いとなった下邳かひの戦いにおいて、呂布が敗れた最大の要因は彼の戦の腕前というよりも、あてにしていた袁術えんじゅつから援軍を送ってもらえなかったという外交的な力のなさに尽きると思います(外交力を含めての戦闘力というのであれば曹操などよりも数段下と言えるでしょうけども……)。, それでも歴史家や三国志ファンの中には呂布は強かったという声が多くあります。それはおそらく【ある一戦】が大いに呂布の評価を高めているからだと考えられます。, その一戦は『演義』ではあまりスポットライトを浴びないため、有名な戦いではありませんが、彼の戦歴に燦然さんぜんと輝く戦いとなりました。それこそが張燕ちょうえん率いる黒山賊こくざんぞくとの戦いです。, 184年の黄巾の乱と時を同じくして、張牛角ちょうぎゅうかくという人物が率いる最凶の盗賊集団【黒山賊】が頭角を現します。, この集団は普通の一般市民の集まりであった【黄巾族こうきんぞく】とは異なり、無法者たちの集まりで山賊や罪人、不良集団などで構成された、完全なる反社会的勢力でした。, 彼らは世の乱れに乗じて、各地で略奪行為を繰り返して徐々にその数を増やしていき、当初は一千ほとであった族の数は一万にも達するほどになりました。, やがてリーダーである張牛角が亡くなると、張燕という人物がその後と継ぎます。この頃には各地から族が終結しており、最盛期には100万というとてつもない数になっていたようです。さすがにこれ以上は黒山族を放置してはおけないと漢王朝が討伐に乗り出すのですが、散々に打ち負かされてしまいました。, しかし張燕はそのまま略奪行為を続けることはせず、なんと漢に帰順することで自らの徳を世に示したのです。漢王室も張燕のこの行為に応えるために【平難中郎将へいなんちゅうろうじょう】の位を彼に与えます。, この位に就く者は、その土地に住む有能な人材を中央に推薦できるという立場でありました。つまり、その土地の統治者として皇帝から認められたということであり、住民から税を徴収できるようになったのです。, 董卓とうたくが国の実権を握ると、張燕は董卓とうたくや公孫瓚こうそんさんと手を組み、袁紹えんしょうと敵対することになります。, 袁紹は公孫瓚を倒すと、続いて張燕の討伐を試みるのですがまったく歯が立ちません。袁紹が困っているときに一人の救世主が現れるのです。それが主君・董卓を討ち、都を追われるようにして袁紹を頼ってきた呂布だったのです。, 袁紹は呂布を手厚くもてなすと、黒山賊をなんとかしてくれないかと呂布に打診します。呂布はこのとき手勢わずか数百騎ほどでしたが、庇護してくれた礼にと、この難題を引き受けました。, 精兵1万と騎馬数千という圧倒的大軍の黒山賊。対する呂布はわずかな手勢の騎馬数百騎のみ。しかし呂布とその手勢たちは、黒山賊の大軍に突撃を行いました。その突撃は1日に3~4回、繰り返すこと数十日にも及んだそうです。, その突撃はすさまじく、呂布の軍団は突撃から帰還するたびに大量の首を抱えてきたそうで、次第に黒山族は呂布に恐れをなして逃亡する者が続出し、ついには完全瓦解してしまったのです。, この働きを袁紹は大いに賞賛し、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と最大級の賛辞を送ったと言われています。当時の袁紹といえば、群雄たちの中でも頭一つ抜けた存在でしたから、そんな袁紹にここまで言わしめた呂布はやはり強かったと言っていいのではないでしょうか。, 愛馬である赤兎馬に跨り、方天画戟を手に戦場を疾走する呂布。それぞれどのようなものであったのか、ご紹介していきたいと思います。, 馬体は全身赤く、ウサギのように素早く走るという赤兎馬。呂布の愛馬であり、後に関羽の愛馬として戦場を駆けぬけました。, 1日に一千里(当時の中国で1里=400メートル)も走るという馬ですが、実際そんなに走ったら馬が潰れてしまいそうですよね。とはいえ、その存在は完全なフィクションというわけではないようです。, 後漢書には「布常御良馬 號曰赤兔 能馳城飛塹(呂布は赤兎という名の良い馬に乗っていた。その馬は城を駆け、堀を飛び越えることができた)」と記録されているので、少なくとも呂布は実際にとても優れた馬に乗っていたということがわかります。, 方天戟という武器の一種で、西洋ではハルバード比定されるそうです。まるで斧のような刃先が戟の先端に備わっていてカッコいいですよね。呂布の使っていたとされる方天画戟は長さがなんと3メートル近く、重さも10キロを軽く超えるものであったといいますが、実際に方天戟という武器が発明されたのは三国志の時代よりも後のことなので、赤兎馬とは違いこちらは完全にフィクションなようです。, いかがでしたでしょうか? 「呂布は最強の武将か?」と聞かれたらもしかしたら別の武将を挙げる人も多くいるとは思います。しかし「呂布は本当に強かったか?」という問いには反対する人は皆無でしょう。, 歴史書はあくまでも勝者にとって都合のいいように残されてしまうものですが、赤壁の戦いはおろか官渡かんとの戦い以前に亡くなってしまった三国志の武将でこれだけ後世にまで語り継がれている武将は呂布以外にはいませんものね。, 呂布軍に長く使えていた張遼がその後曹操の下で八面六臂はちめんろっぴの大活躍を見せていた事実からも、もし曹操が呂布の降伏を受け入れ、その手綱をしっかりと取れていたら歴史は変わっていたと考えられるのではないでしょうか。中国には「曹操が呂布を殺す(後悔するの意)」ということわざがあるくらいですからね。, その中でも本場・中国で制作された”三国志 Three Kingdoms”は名作との呼び声が高く、管理人自身自信をもってお勧めできる三国志ドラマです。, 実はYouTubeなどにもあるにはあるんですが、全部の話はなくとびとびの話しかなかったり違法行為なので運営から削除されて見れなくなったりしています。, ですが、FODプレミアムに登録すると”三国志 Three Kingdoms”の全話が見れて一か月以内に解約さえすれば料金は全くかからないんです。. 軍師系武将に官職を付けてしまうと、攻防が弱いくせに主将になってしまい、非常に困る。, 知イと武ハが研究できるようにならないんですけど、どうしてか教えてくれませんか?(長文失礼致しました。) -- (孫権もどき), ↑隠し特技が出ているなら研究できるはず。出てないなら研究できなくて当然ですが。 -- (名無しさん), 返答ありがとうございます。深謀、知+5高、兵器Aらを研究し終えたのに、出ないんです。 -- (孫権もどき), ↑の続き。隠し特技が出る箇所は全部で10箇所。そこからランダムで5箇所に出るようになっていてどこに出るかは新しいゲームを開始する度に変わる。 -- (名無しさん), 適性的には甘寧が勝り、能力値的には張遼が勝るのですが、覇王をつけるならどっちが重要なのか、教えてください。 -- (孫権もどき), 甘寧と張遼どっちも手に入れて覇王を研究した後ならゲーム中盤以降ですな。正直どっちでもクリアに問題はないので趣味だけでは。信愛や一族の多い張遼が有力だけど、どっちを重用した構成になっているかによると思う。 -- (名無しさん), 最悪だわ、いくらでも修行にだせると思ってたのに合計20までなのか。これはすごく後悔したのでどなたか編集に詳しい方は回数が決まっていることを見やすいところに赤色にしたり大きくしたりと強調して書いていただきたい。こんな思いは自分で終わりにしたいです。よろしくお願いします -- (名無しさん), 編集が前提になってしまうが、CPUは新しく研究した特技を、特技が無い武将に付けることが多く、残念な特技を上書きすることは滅多に無い(PS2版で確認), ↑新しく研究し付けられた、もしくは新しく登場した武将の特技も削除する場合、数年に一度確認することをお勧めします。長文失礼しました -- (名無しさん), 隠し特技一覧表を''San11editor''を元に修正しました。 -- (名無しさん). 万彧(バンイク) 統率21 武力23 知力70 政治63 魅力36 呉の官僚。【演義】264年、孫休が病没すると、嫡男の孫吒[ソンワン]が年少であることを理由に、孫晧を即位させるよう主張。孫晧即位後に丞相となるが、孫晧の暴政をいましめて怒りを買い、殺された。【正史】烏程の役人だった頃、孫晧と親しくなる。孫晧即位後は右丞相となり、巴丘を守備。271年、孫晧が民衆に多大な犠牲を強いて各地を巡幸した際、丁奉、留平と都への帰還を相談。孫晧の怒りを買い、毒酒を飲まされそうになって、自害した。, 蘇由(ソユウ) 統率51 武力59 知力48 政治40 魅力47 袁尚の武将。【演義】曹操に攻められた袁譚の救援に袁尚が向かった際、審配と共に鄴の守りについた。【正史】曹操軍が鄴への侵攻を開始すると、曹操との内通を謀る。しかし、これに気づいた審配と市街戦になり、城外に脱出して曹操軍に降った。, 潘璋(ハンショウ) 統率76 武力80 知力70 政治28 魅力7 呉の武将。【演義】孫策の死後、孫権に召集された。208年の黄祖討伐では、蘇飛を捕らえる。その後、赤壁の戦い、南郡攻略戦、合肥攻防戦に参加した。219年、呂蒙の指揮下で荊州に進攻し、関羽父子を捕らえる。夷陵の戦いでは先鋒となって蜀軍を迎撃。緒戦で黄忠を撃退するが、関興に仇討ちを挑まれ、討ち取られた。【正史】夷陵の戦い後も戦功を上げ、南郡に進攻した夏侯尚を撃退して右将軍となる。部下の財貨を奪うなど不法行為が多かったが、功に免じて許された。, 何苗(カビョウ) 統率35 武力46 知力34 政治37 魅力32 後漢の車騎将軍。何進の義弟、何皇后の異父兄。【演義】何皇后が董太后を追放して一族が権力を握ると、張讓らに賄賂を贈られ、十常侍に籠絡される。何進が十常侍を誅滅しようとすると、これを阻止。のち何進が十常侍に暗殺され、袁紹らが宮中に踏み込むと、暗殺に加担したとして呉匡に斬られた。【正史】演義と同様。何進とは不仲だったという。, 曹芳(ソウホウ) 統率5 武力8 知力28 政治48 魅力71 魏の明帝・曹叡の養子。任城王・曹楷の子とも言われるが出生は謎。斉王。魏の第3代皇帝。張皇后は張緝の娘。【演義】曹叡の死後、わずか8歳で即位。当初は曹爽に政権を掌握されるが、249年に司馬懿が曹爽を打倒した後は、司馬一族が政治を取り仕切った。254年、自らをないがしろにする司馬師を憎み、夏侯玄、李豊、張緝らに司馬一族打倒の密勅を与えるが、露見。夏侯玄らと張緝の娘に当たる張皇后は殺され、自らは斉王に格下げされた。【正史】退位して都を離れる際、司馬孚ら数十人の群臣が涙を流して見送った。, 孫仲(ソンチュウ) 統率64 武力71 知力36 政治6 魅力11 黄巾の武将。【演義】張角が病死した後も、趙弘、韓忠と共に宛城に籠もって抵抗を続ける。朱儁と劉備が率いる討伐軍が来襲すると、突破して逃れようとしたが、劉備が放った矢に当たり、戦死した。【正史】南陽黄巾の張曼成、趙弘、韓忠が朱儁らに討たれた後、孫夏が総帥となって抵抗を続けた。しかし、孫夏も朱儁に斬られ、南陽の黄巾賊は解散する。演義の孫仲はこの孫夏を描いたものと思われる。.


ベストアンサー. 【三国志地図】「幷州/并州(へいしゅう)」の郡県詳細地図(後漢末期) 幽州(ゆうしゅう) 幽州 ( ゆうしゅう ) 基本データ. 合計 - 人 オンライン -人 昨日 - 人 今日 - 人 メニュー ├ FAQ | └ Q&A ├ 内政 | ├ 技巧研究 | ├ 能力研究 | └ 武将育成例 ├ 戦争 | ├ 兵科 | ├ 一騎討ち | ├ 支援攻撃 | └ ダメージ検証 └ 小ネタ. 最終更新: 2020-11-11 19:00.

//
2010/12/30 22:43. ホーム. | 馬雲騄(バウンリョク) 統率70 武力73 知力39 政治32 魅力61 架空の人物。馬騰の娘。馬超、馬休、馬鉄の妹。天女のような美貌と、優れた武勇の持ち主。馬騰、馬休、馬鉄が曹操の謀略で殺された後、馬超に従い復讐戦を挑む。曹操に敗れると、馬超、馬岱と共に劉備軍に帰属。